日出城跡大分県速見郡

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日出城跡DATA
別称 暘谷城
築城 1602年
住所 大分県速見郡日出町2610-1
日出城跡への交通アクセス
JR「暘谷」駅 徒歩約5分

HISTORY 城下カレイの語源にもなった日出城

日の出城は、大分県速見郡日出町築かれていた平城です。別府湾に望む城で、築城から明治維新まで木下家によって治められた日出藩の藩庁として機能しました。 日出町の名物「城下カレイ」は、日出城の直下の海で取れたマコカレイがことさら美味だったことから特別に名付けられました。そんな日出城の歴史を紐解いていきましょう。

安土桃山時代以前の日出城
大分県速見郡は明治以前まで豊後国と呼ばれ、戦国時代までは大神氏が支配していました。大神氏の歴史は大変古く、一説によると古墳時代には宇佐神宮に宮司や禰宜としてこの地を治めていたと伝えられています。 大神氏はその後鎌倉時代に在地武士の一団となり、やがて鎌倉幕府から守護に命じられて赴任してきた大友氏の家臣団に組み込まれていきました。 そんな大神氏が現在とは異なる位置ではありますが、「日出城」と称する城を築城した、という説があります。 この日出城は戦国時代に九州全域の支配をもくろむ島津氏と大友氏の間で起こった豊薩合戦で落城したといわれています。しかし、大友氏改易の後で速見郡の郡代となった豊臣氏家臣の毛利重政が日出城の城代になったという記録も残っています。
日出城築城から明治まで
現在城址が残る日出城を築城したのは、日出藩の初代の木下延俊です。 木下延俊は、豊臣秀吉の正妻おね(高台院)の兄である木下家定の三男として生まれました。豊臣秀吉に仕えましたが、慶長5年(1600年)に起こった関ヶ原の戦いでは、妻の兄であった細川忠興の助言もあって東軍に味方しています。 そのため、功績を称えられて豊後国速見郡日出3万石に封じらて日出藩を起ち上げました。
日出城は、慶長7~8年にかけて(1602年~1603年)細川忠興の助けを借りて築城されます。日出城址には現在も当時の石垣が残っていますが、この石垣を積んだのは豊臣秀吉にも仕えた石工集団、穴太衆だと伝わっています。石垣は「野良積み」という手法で作られており、当時の技術を今に伝えている貴重な遺構です。 なお、余談ですが昭和35年(1960年)に、城下海岸遊歩道の工事、城の西南端から木棺が発掘されました。この木棺は岩盤をくり抜いた穴の中に納められており、その上には城の基礎である大岩が乗せられた状態でした。
この木棺の中には、調査の結果日出城築城時の時代のものと判明した人骨と共に陶製の翁象が入っており、大岩の上には兜の金具などがおかれていました。日出城には築城時人柱が立てられたという伝説が伝わっていましたが、それが本当であったことが証明された事例です。 人柱が発掘された城の西南部は地盤が弱く、工事が難航したと伝わっています。発掘場所には現在「人柱祠」が建てられています。
明治以降の日出城
明治を迎えると、日出城は廃城令によってほとんどの建物は取り壊されてしまいました。 かろうじて望海櫓と鬼門櫓が残され、裏門櫓(鐘櫓)が移築されます。 その後、望海櫓は日出尋常小学校の校舎に使われましたが、その後校舎建て替えの際に取り壊されてしまいました。 しかし、中村家に引き取られていた鬼門櫓は平成25年(2010年)に移築、復元されます。裏門櫓も平成22年(2010年)に移築され、現在は石垣と2つの櫓を城址に見ることができます。
現在の日出城は本丸跡に小学校が建っていて、二の丸には復元された鬼門櫓は内部に入ることもできます。 小学校の敷地内には勝手に入れませんので注意しましょう。 また、敷地内には明治時代の作曲家、滝廉太郎の銅像が立っています。 これは、滝廉太郎の祖先が日出藩の重臣だったことに由来しています。
まとめ
日出城址は現在、鬼門櫓・裏門櫓、石垣、空堀など一部が残っているのみです。 しかし、石垣は江戸時代初期の建築様式を今に伝える貴重な遺構です。 また、城址からは美しい別府湾が望め、春にはサクラと海の競演も楽しめます。

日出城跡を藩庁とする、日出藩の歴史

日出藩豊臣秀吉に連なる一族が納めた
日出藩は、大分県速見郡一帯を納めていた2万5千石の小藩です。豊臣秀吉の正妻、おね(高台院)の兄、木下家定の三男である木下延俊が初代藩主となり、そのまま移封もされずに木下家が明治維新まで藩主を務めました
日出藩
日出藩DATA
藩庁 日出城跡
旧地域 豊後国速見郡
石高 2万5000石
譜代・外様 外様
主な藩主 木下家
推定人口 2万1000人(明治元年)
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