HISTORY
有明海にのぞむ復興された城「島原城」
島原城は、長崎県島原市城内に築かれていた平城です。有明海をのぞめる場所、雲仙普賢岳の麓に位置するこの城は江戸時代初期、「島原の乱」の舞台になりました。そんな島原城の歴史を紐解いていきましょう。
- 島原城築城
- 島原城は、元和4年(1618年)に大和五条藩主、肥前日野江藩初代藩主であった松倉重政によって築城されました。
その当時、島原の地にはた原城・日野江城という2つの城がありましたが、幕府が出した一国一城令に従ってこれらの城を廃し、新しく島原城を作ったのです。
築城当時の島原城は、五層天守閣を中核とした連郭式平城です。本丸と二の丸がそれぞれ独立して堀に囲まれており、廊下橋形式の木橋が2つを繋いでいました。
いざとなったら木橋を落とせば本丸を独立させることができます。
破風を持たない独立式層塔型5重5階の天守の他、総石垣、櫓49棟という豪華な造りは、10万石の大名の居城に匹敵するものでした。
松倉重政の石高は4万3千石だったので、分不相応な豪華さだったことが分かります。
しかも、島原城を建てた場所は火山灰や溶岩流が積み重なってできた地層で、城を建てるには不向きな場所でした。
そのため、普請工事は困難を極めたと言うことです。
- 豪華すぎる城が島原の乱の引き金になる
- 石高に見合わない豪華な城を建てたことで、島原藩はあっという間に財政が苦しくなりました。
松倉重政は財政難を解消するために農民に重税を課し、過酷な取り立てを行いました。
この重税と過酷の取り立ては松倉重政の子息であり、第二代藩主の松倉勝家のときも継続されたため、蜂起した旧有馬氏の家臣を中心とした農民達が、一揆を起しました。
なお、島原の乱というと「天草四郎」が有名ですが、彼は肥後天草で勃発した一揆の首謀者で、後で島原の一揆に合流したのです。
また、蜂起した一気した勢が立てこもった城が「島原城」と思われがちですが、正しくは廃城となった「原城」です。
島原城は、一揆勢と戦った島原藩の兵士が籠城しました。
城は堅固なので打ち破られることはありませんでしたが、一揆勢は島原城下町を荒らして打ち壊しなどや略奪をおこなったということです。
島原の乱は結局幕府が13万人近くの討伐軍を派遣し鎮圧に成功しますが、松倉勝家は農民に反乱を起させた罪で,斬首されます。
その後、島原城は幕末まで4つの家が入れ替わって入り、藩主として島原藩を治めました。
- 明治時代以降の島原城
- 明治7年(1874年)に廃城令が明治政府より発令され、島原城も土地と建物全てが民間に払い下げられました。
明治9年(1876年)には天守閣をはじめとする全ての建物が取り壊され、本丸跡地は畑となり、三の丸は島原高校をはじめとする学校が建ち並びました。
しかし、島原の人々の間から城の復興を望む声があがり、昭和35年(1960年)に西櫓、昭和39年(1964年)には天守閣が復興されました。
なお、現在、天守閣は「キリシタン史料」「郷土史料」「民俗史料」などを展示する資料館となっています。
その後も復興は続き、昭和47年(1972年)には巽櫓が復元されました。そして、平成8年(1996年)には、雲仙普賢岳噴火災害を映像と各種資料を展示する「観光復興館」が城の敷地にたてられました。
平成18年(2006年)には、復興された城でありながら日本100名城に選出されます。
平成28年(2016年)には、城跡が長崎県指定史跡に指定されました。
現在の島原城は年間20万~30万人の観光客が訪れる島原市の観光名所になっています。
島原薪能、不知火祭という各種イベントも行われていますが、特に珍しいのが、城の堀に生えたレンコンを掘り当てる「島原城秋のレンコン堀り大会」です。
これは、島原城が畑だった頃に栽培していたレンコンが自生したもので、令和元年で15回目を数えます。
掘り当てたレンコンは持ち帰りが可能です。
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