HISTORY
伊東四十八城の1つ飫肥城
飫肥城は、宮崎県日南市飫肥に築かれた群郭式の平山城です。15世紀に日向中北部を支配する伊東氏と九州統一をもくろむ島津氏との争いの舞台になった城で、江戸時代は伊東氏飫肥藩の藩庁として栄えました。そんな飫肥城の歴史を紐解いていきましょう。
- 飫肥城の始まり
- 飫肥城の始まりは、平安時代末期から戦国時代前期にかけて、日向国北部を中心に武士団として勢力を伸ばしてきた土持氏が、南北朝時代に砦を築いたことが始まりといわれています。
この時代は、まだ城ではなく「飫肥院」と呼ばれていたとも伝わっています。
そのため土持氏が代々城主を務めていましたが、文明16年(1484年)年に日向中北部を支配していた伊東氏が勢力拡大のため飫肥に侵攻すると、九州統一を目指す島津氏の一族が飫肥城に入り、伊東氏の侵攻を食い止めようとします。
一旦、飫肥城は伊東氏の手に落ちますが、翌文明17年(1485年)飫肥城を再び島津氏が奪還。この際、当主だった伊東祐国が戦死します。
その結果、伊東氏は飫肥城に対する執着を強め、ここに80年以上の長きにわたる島津氏対伊東氏の飫肥城を巡る戦いが幕を開けました。
- 飫肥城を巡る争い
- 伊東祐国が戦死した後、伊東氏は一時縁者同士が家督を巡って争う内紛状態に陥り、伊東祐国の孫に当たる伊東義祐らは日向を追われるまでになりましたが、家臣の荒武三省らの活躍により乱を平定、再び家督を取り戻します。
伊東義祐は一度は出家したものの、家督を継いだ兄が急逝したので還俗して当主になった人物です。
彼は、飫肥を領する島津豊州家と日向南部の権益をめぐって、後に飫肥役と呼ばれる長い戦役を行ないます。
室町幕府の13代目将軍である足利義輝より和睦命令が出されるなど、幕府も巻きこんだ争いになりましたが、島津も伊東も一歩の引かず、ついに幕府が飫肥を「直轄地」とする命令を出します。
それでも、伊東義祐は命令を無視し、飫肥への侵攻をやめることはありませんでした。
永禄11年(1568年)、第九次飫肥役で、伊東義祐は島津忠親が守る飫肥城を約5ヶ月間にわたり包囲し、大勝利を収めます。
そしてついに島津家第15代当主、島津貴久と和睦を結んで飫肥の地を手に入れました。
長い戦いの末、ようやく飫肥城を手に入れた伊東義祐は、伊東四十八城と呼ばれる城や砦を築いて領土の守りを固めます。その中には飫肥城も含まれていました。
念願の飫肥を手に入れた伊東義祐は、伊東氏の本拠である佐土原を「九州の小京都」と呼ばれるまでに発展させます。
しかし、元亀3年(1572年)に起こった九州の桶狭間と呼ばれる「木崎原の戦い」で島津氏に大敗したことで、伊東義祐の力は衰えていきました。
この戦いで、伊東義祐は飫肥を追われ、この地は再び島津氏の物になります。
伊東義祐の三男である伊東祐兵は、血縁頼って織田氏に仕えるようになり、やがて羽柴秀吉の与力となりました。
天正10年(1582年)の山崎の戦いで活躍し、天正15年(1587年)の豊臣秀吉の九州平定によって島津氏が日向国を放逐された後は、旧領のうち清武・曾井などを回復され、2万8千石の大名として復権しました。翌年は飫肥の所領も与えられ3万8千石に加増されました。
こうして、豊臣政権下で飫肥は正式に伊東氏の所領になったのです。
もちろん、飫肥城も伊東氏のものになりました。
- 江戸時代の飫肥城
- 慶長5年(1600年)に起こった関ヶ原の戦いでは、伊東祐兵は西軍に味方するとかけてみせかけて、嫡子である伊東祐慶を東軍に味方させます。
そのため、関ヶ原の戦いの後は所領を安堵され、飫肥藩の藩主になりました。
以後、飫肥城は飫肥藩の藩庁として明治まで伊東家の居城となります。
なお、飫肥城は中世の姿を色濃く残す形でしたが、2代目藩主である伊東祐慶は、城よりも城下町の整備に力を尽します。
その後、寛文2年(1662年)の外所(とんどころ)地震を皮切りに3度の地震に見舞われて城が破損したため、その都度幕府の許可を得て修理を行い、少しずつ石垣を備えた近代的な城郭に生まれ変わっていったと伝わっています。
- 明治以降の飫肥城
- 明治になると廃城令を受け、飫肥城の建物はほとんど取り壊されてしまいます。
しかし、昭和53年(1978年)には大手門、昭和54年(1979年)には城主の居館である松尾の丸が復元されました。
また、本丸跡である飫肥杉林は、平成17年(2004年)後期の連続テレビ小説「わかば」のロケ地になり、一気に知名度が上がりました。
飫肥城歴史資料館なども敷地内にあり、日南市の観光名所の1つになっています。
平成18年(2006年)には日本百名城の1つにも選出されました。
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- 伊東祐兵伊東氏中興の祖
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