HISTORY
西南戦争の舞台にもなった人吉城
人吉城は、熊本県人吉市麓町にある城跡です。現在も残っているのは石垣の一部のみですが、西南戦争では西郷隆盛が陣を張るなど、歴史的な出来事の舞台にもなりました。現在は、桜や紅葉の名所としても知られています。そんな人吉城の歴史を紐解いていきましょう。
- 江戸時代までの人吉城
- 人吉城の前身は、源頼朝に仕えた遠江国相良荘国人の相良長頼という人物が、平頼盛の家臣の矢瀬主馬佑という人物を謀殺し、領地と城を奪い取り、自ら拡張した城です。築城の際、三日月型の模様の入った石が出土したため、人吉城は「三日月城」「繊月城」といった別名を持つようになりました。
相良氏は、鎌倉時代が終り室町時代になってもこの地を治め続け、戦国時代になると磨地方を統一しました。300年以上の長きにわたり、1つの家が同じ土地を支配し続けるのは非常に珍しいことです。その間、人吉城も改築を繰り返し、19代目当主の相良義陽により、天正年間から大改修がスタートしました。この大改修は事情があるごとに中断されながら、22代当主の相良頼寛が寛永16年(1623年)にようやく完了します。
一方、相良家は天正9年(1581年)に九州の覇権を握った島津氏に服従して臣下となりました。6年後の天正15年(1587年)羽柴秀吉の九州征伐の際は20代目当主の相良頼房が奮戦しますが敗北、その後、家臣の深水長智が豊臣秀吉の交渉によって領土を安堵されます。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは一端は西軍につくものの、石田三成が劣勢になると東軍に内応し、徳川家康に2万2千石の領地を安堵されました。こうして相良氏は大名となったのです。
- 江戸時代の人吉城
- 江戸時代、人吉城は人吉藩の藩庁として機能しました。22代当主の相良頼寛の時代、寛永16年(1623年)に19代目当主から続いた人吉城の大改修が完了します。日本三大急流の一つといわれる球磨川とその支流である支流の胸川を天然の堀とし、多くの船着き場を設けて水運を活用しているのが、特徴でした。天守閣は築かれず、代わりに護摩堂があったと記録に残されています、
しかし、文久2年(1862年)に「寅助火事」と呼ばれる大火が起こり、城の建物大半と城下町の大部分が消失します。その後、再建された石垣の一部には、ヨーロッパの築城技術である「槹出工法」が用いられた「武者返し」が作られました。武者返しは、城壁越えを防ぎ、攻めてきた人間を簡単に落下させられるネズミ返しのような設備です。この武者返しがついている城壁はほかに、函館の五稜郭と龍岡城のみで、規模としては人吉城が最大です。
- 明治以降の人吉城
- 明治になり、人吉城は廃藩置県によって廃城となります。その後、明治10年(1877年)に起こった西南戦争で西郷隆盛率いる軍の陣地になったため、幕末に再建された建物を含め、すべて御殿や櫓などは全焼してしまいました。しかし、堀合門だけが唯一残り、市内の民家に移築されて現存しています。
その後、城跡は人吉城公園として整備されて国の史跡に指定されます。
平成になると隅櫓・大手門・脇多聞櫓・続塀が復元され、人吉城歴史館が開館します。歴史観には石造り地下室の遺構が保存されています。
平成18年(2006年)に日本100名城にも指定されましたが、令和2年(2020年)の豪雨災害により城址が大被害を受け、長らく復旧のために立ち入りが制限されていましたが、令和5年(2023年)には大部分が復旧しました。ただし、多門櫓・角櫓は現在も立ち入り禁止です。
- まとめ
- 人吉城は日本の城の中では大変珍しく、相良氏が鎌倉時代より改修に改修を重ねて現在まで残っている遺構です。近世城址ですが、中世の城址の面影も残っており、日本の城郭の歴史を感じられます。春は桜の名所として知られており、城址からは人??市内が一望できる観光名所です。なお、立ち入り禁止区域は随時人吉市の公式ホームページで告知されているので、訪れる際は確認してください。
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