HISTORY
唐づくりの天守閣を持つ「小倉城」
小倉城は、福岡県北九州市小倉北区にある海城です。肥後細川家の初代であり細川ガラシャの夫としても知られる、細川忠興によって7年の歳月をかけて建築されました。唐造りの天守がある城としても有名です。
そんな小倉城の歴史をひもといていきましょう。
- 交通の要所だった小倉
- 小倉は九州の入り口であり、唐津[剣先あやめ1]街道・長崎街道・秋津街道・中津街道といった九州の各地をつなぐ街道の集約地点でありました。そのため、小倉は文永年間(1264年~1274年)の頃には緒方大膳亮惟重という人物が城を築き居城していたといった記録が残っています。緒方氏は30年ほど小倉を治めましたが延慶年中(1308年~1311年)に水原備中守定允に滅ぼされます。その後も20~30年単位で小倉を支配する人物が変わり、そのたびに小倉には小規模な城や砦が築かれ続けました。戦国時代になると、高橋鑑種という人物が毛利氏と組んで大友氏に反乱を起こした結果、敗れて小倉の地に領地替えになります。その後、九州を平定した豊臣秀吉が森勝信(毛利勝信)に、田代郡の6万石も与えて小倉の地を治めさせました。高橋鑑種が小倉の地に領地替えになったころから城があったという記録がありますが、この城がどのような城であったのか正確な記録は残っていません。
毛利勝信は慶長5年(1600年)に起こった関ヶ原の戦いで西軍に味方したせいで改易になりました。
- 細川忠興による小倉城の築城から幕末の焼失まで
- 改易になった毛利氏に代わって小倉の地を治めたのは細川忠興です。江戸幕府を開いた徳川家康は彼に豊前国1国、豊後国速見郡、国東郡合せて39万9千石を関ヶ原戦いの温床として与えました。細川忠興は、最初黒田氏の居城であった豊前国の中津城に入城しましたが、慶長7年(1602年)から7年の歳月をかけて毛利勝信の居城であった小倉城を大幅に改築して、現在に伝わる小倉城を築城しました。
小倉城は本丸の南側に松丸、北側に北の丸を築き、この3つを囲い込むように二の丸、三の丸といった外郭が配置されていました。また、平櫓117、二重櫓16、櫓門12、狭間3271があったと記録に残っています。
特筆すべきは天守閣で、4重5階の大天守と小天守からなる連結式層塔型をしていました。さらに、最上層の入母屋破風以外に破風がない造りは前例がなく、「唐造り(南蛮造り)」という言葉まで生まれたほどです。なお、現在復元されている小倉城天守は複数の破風を持っていますが、当時の記録に基づいて描かれたイラストを見ると、シンプルでモダンな印象を見る人に抱かせる作りです。
なお、後年津山城や高松城が小倉城の大天守を参考にして造られました。
細川忠興のこだわりと美意識がつまった天守は、残念ながら天保8年(1837年)に焼失してしまい、以後再建されることはありませんでした。このほか、細川忠興は小倉城築城と同時に城下町の整備も進め、城の東を流れる紫川を天然の堀として活用し、城内に町を取り込んだ総構えとします。江戸時代を通して小倉城は小倉藩の藩庁となり、細川家と譜代大名の小笠原家の2家が幕末まで城主を務めました。
慶応2年(1866年)、第二次長州征伐で小倉藩は長州藩と戦闘になって劣勢に追い込まれます。小倉藩は小倉城からの撤退を決め、小倉城は焼却されてしまいます。藩主は熊本藩に撤退、家老たちは福岡県田川郡香春に藩政の拠点を移しました。このとき、事実上小倉藩は消滅し、世の中は明治を迎えます。
- 明治以降の小倉城
- 明治になると小倉城跡には陸軍の歩兵第14連隊と歩兵第14連隊を管轄する歩兵第12旅団本部が置かれ、司令部庁舎などが建てられました。
昭和34年(1959年)に鉄筋コンクリート構造で天守が外観復興されます。これが現在の小倉場ですが、複数の破風があって歴史上の姿とは異なったものです。内部は郷土資料館になっており、平成2年1990年にリニューアルされて体験型施設に生まれ変わりました。平成10年(1998年)に小倉城庭園および北九州市立松本清張記念館が開館し、平成29年(2017年)には日本百名上に選ばれました。
現在の小倉城は、天守閣でバーやダイニングが楽しめる「小倉城ナイトキャッスル」などオリジナルのイベントなども行っており、国内の観光客はもちろんのこと海外から日本を訪れた方々にも人気の観光スポットになっています。
また、3月下旬には桜祭り、九月下旬には薪能、10月には北九州小倉城まつりといったイベントも開催されており、期間中はたくさんの方ににぎわっています。
- まとめ
- 古くから九州各地を結ぶ街道の集約点にして、本州との玄関口であった小倉は古くから支配権をめぐって多くの武将たちが争ってきました。細川忠興が築城した小倉城は江戸時代を通して小倉の地を治める小倉藩の藩庁として機能してきましたが、幕末、長州藩と小倉藩の戦争によって消失してしまいます。
現在再建された小倉城の天守は史実の姿とは異なりますが、往年の優美さや勇壮さを偲ぶことはできます。天守閣で食事やお酒、カフェを楽しめるイベントなども開かれているので、一日楽しめる場所です。
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