HISTORY
紀州徳川藩の居城であった和歌山城
和歌山城は、和歌山県和歌山市に位置する平城です。紀伊徳川家の居城としても有名であり、昭和20年(1945年)にアメリカ軍の空襲で焼失するまで、天守閣が存在していました。
現在は再建された天守閣や大手門、一之橋などを見学することができます。
そんな和歌山城の歴史を紐解いていきましょう。
- 江戸時代以前の和歌山城
- 和歌山の地は、15世紀頃より鉄砲傭兵・地侍集団である雑賀衆が治めていました。
天正13年(1585年)に豊臣秀吉が紀州討伐を開始し、弟の豊臣秀長が副将軍として参戦し、紀州を平定した後で紀伊・和泉の2ヶ国が報償として与えられます。
豊臣秀長は、秀吉の命によって現在の和歌山市の中心部に位置する標高48.9mの虎伏山に城を築きました。
築城の普請奉行を務めたのは、築城の名手として名高い藤堂高虎です。
また、城が完成した暁に、当時「若山」であった地名が「和歌山」と改名されました。
この豊臣秀長が築いた城が、和歌山城の前身です。
天正14年(1586年)、桑山重晴が3万石を与えられて城代になります。
重晴は本丸を中心に手直しを加え、慶長元年(1596年)に孫の桑山一晴に城代の座を譲りました。
慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いが起ると、桑山一晴は東軍に与し、幕府より改めて紀伊和歌山に2万石を与えられましたが、間もなく大和新庄藩に転封となります。その後、同じく東軍に属した浅野幸長が37万6千石を与えられ紀州藩主となり、和歌山城に入城しました。
浅野幸長もまた、下見板張りの天守を建てたり、現在の本丸・二の丸・西の丸に当たる場所に屋敷を造営したり、土塁を石垣に改修したりするなどしています。
このほか、城下町の整備にも着手し、現在の大手門を岡口門から一の橋の方面に移したあと、本町通りを大手筋として城下町を整備したりもしました。
元和5年(1619年)浅野氏は改易となった福島正則の代わりに、広島藩に加増転封され、紀伊和歌山には徳川家康の十男・頼宣が55万5千石で入城し、ここに徳川御三家の一つ、紀州徳川家が成立しました。
- 江戸時代の和歌山城
- 紀州和歌山に入城した徳川頼宣は、兄でもある2代将軍徳川秀忠より銀5千貫を受領し、これを元手に元和7年(1621年)より城の改修と城下町の拡張を開始しました。
その工事があまりにも大規模であったため、幕府から謀反の疑いがかけられるほどであったと記録に残っています。
江戸時代を通じて、和歌山城は火事に何度も見舞われました。
* 明暦元年(1655年)西の丸に隣接する家臣の屋敷より出火し、二の丸、西の丸が延焼
* 文化10年(1813年)西の丸大奥より出火し、西の丸御殿が全焼
* 弘化3年(1846年)天守曲輪への落雷が原因で、御殿を除く大小天守など本丸の主要建造物が全焼
記録に残っているだけで、3回も主要な建物が焼失しています。
なお、天守閣が焼失した際、和歌山城は徳川御三家、紀伊徳川家の居城ということで、特別に再建許可が下り、嘉永3年(1850年)、に大小天守等が再建されました。
- 明治時代以降の和歌山城
- 大政奉還が行われて明治政府が樹立すると、明治4年(1871年)に廃城令が出され、日本中の城が一斉に廃城になりました。
和歌山城も二の丸御殿が明治18年(1885年)大坂城へ移築されるなど、多くの建物が解体されたり壊されたりしています。
明治34年(1901年)に本丸・二の丸一帯が、和歌山公園として一般開放されました。
なお、この時点でも天守など11棟が現存しており、それらは昭和10年(1935年)に旧国宝保存法に基づいて、国宝に指定されました。
しかし、これらの建物はすべて昭和20年(1945年)に、アメリカ軍の空襲(和歌山大空襲)により、消失してしまいます。
戦後、昭和32年(1957年)岡口門とそれに続く土塀が国の重要文化財に指定され、翌昭和33年(1958年)には、東京工業大学名誉教授の藤岡通夫が指示をして、鉄筋コンクリートによって天守群が再建されました。
昭和58年(1983年)、明治42年(1909年)に老朽化し崩壊した大手門と一之橋が復元されます。
平成18年(2006年)には、二の丸と西の丸を結んでいたとされる御橋廊下の復元工事が始まり、日本城郭協会から日本100名城(62番)に認定されました。
現在の和歌山城は、敷地内に動物園や庭園、つつじ園などが整備されて、和歌山を代表する観光名所の一つになっています。
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