HISTORY
天守は国宝。井伊家の居城として築かれた彦根城
彦根城は、天守が国宝に指定されている5城のうちの1つです。江戸時代初期に築城され、安政の大獄を行った井伊直弼の生家として有名な井伊家の居城でした。この記事では、まず彦根城の歴史をひもといていきましょう。
- 石井三成の居城 沢山城から建材を用いて築城された城
- 彦根城は、江戸時代初期に現在の滋賀県彦根市金亀町の彦根山に築城された城です。低山に築かれる平山城として建築されました。彦根の地はもともと石田三成が「沢山城」を築き、治めていた場所です。慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いが起こり、石田三成が処刑された後、この地は徳川四天王の一人である井伊直政に与えられました。
徳川家康はこの地を関西地方の大名を監視し、いざとなったら戦いの拠点となる鎮西の為の拠点として考えていました。ですから、最も信頼できる部下に与えたのです。井伊直政は当初沢山城に入城しましたが、彼は沢山城の中世的な作りと石田三成の居城であることを嫌い、新しい城の築城を申し出ます。しかし、井伊直政は関ヶ原の戦いの傷が元で、慶長7年(1602年)に死去してしまいました。後を継いだ長男の井伊直継はまだ幼少であったため、家老の木俣守勝が徳川家康にかけあって、慶長8年(1603年)琵琶湖に面した彦根山に築城を開始します。この際、大津城や沢山城の木材が建材として使われました。なお、彦根城の築城には公儀御奉行3名が任じられ、尾張藩や越前藩など7か国12大名が幕府から手伝いを命じられています。このことから、彦根城の築城は天下普請であったことがうかがえます。慶長11年(1606年)に天守が完成し、井伊直政の息子井伊直継が初代当主として彦根城に入城しました。その後、大阪夏の陣後の元和2年(1616年)に御殿の建造が始まり、元和8年(1622年)に全ての建物が完成します。
なお、彦根城は西国大名を抑える拠点として築城されたため、江戸時代初期に築城された城の中では、天守や櫓など軍事設備が充実しています。徳川家康は西国大名が反旗を翻したら沢山城を幕府の拠点として戦をする予定でした。しかし、大阪夏の陣を最後に大規模な戦は起こらず、彦根城の天守や櫓は年貢米を保管する倉庫などとして使われたということです。
その後、彦根城は明治になるまで井伊家の居城として彦根藩の政治の中心地として機能します。安政の大獄や桜田門外の変などで名が知られている幕末の大老井伊直弼は、35才で藩主になるまで彦根で過ごしています。
- 明治以降の彦根城
- 明治になり廃藩置県が行われると、全国各地の城は次々と壊されていきました。彦根城も当初は天守が壊されて廃城となる予定でしたが、陸軍省管轄下の施設となったために天守や櫓などの解体を免れます。しかし、老朽化を理由に彦根城は民間へ払い下げられて解体されることになりましたが、明治11年(1817年)に明治天皇が彦根へ行幸した際、同行した大隈重信が天守や櫓の保存を奏上しました。その結果、彦根城の天守や櫓は保存されることになり、最終的に皇室付属地彦根御料所を経て最後の彦根藩主であった井伊直憲に下賜されます。その後、昭和19年(1944年)に井伊家から彦根市へ彦根城が寄付され、昭和26年(1951年)に「彦根城跡」として国の史跡に指定されました。翌年、天守(1棟)と附櫓及び多聞櫓(1棟)の2棟が国宝に指定されます。
- 現在の彦根城
- 国宝に指定された彦根城は、昭和32年(1957年)〜昭和43年(1968年)に昭和の大修理、平成5年(1993年)〜平成8年(1996年)に平成の大修理を経て、現在の姿になりました。また、昭和63年(1987年)に御殿が再建されて博物館として運営されています。平成18年(2006年)には、日本の名城100選に選出され、知名度が高まります。そして、翌平成19年(2007年)には、国宝・彦根城築城400年祭が行われ、マスコットキャラクターの「ひこにゃん」が登場しました。ひこにゃんはゆるキャラブームの火付け役となり、現在もその人気は健在です。土日には着ぐるみが彦根城に登場し、観光客の人気となっています。現在の彦根城は、国宝天守閣・重要文化財の太鼓門・各種櫓・馬屋・名勝玄宮園などが公開中です。また、梅林やソメイヨシノなど、たくさんの樹木や草花が植えられており、四季折々の花が楽しめます。
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