岸和田城大阪府岸和田市

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岸和田城DATA
別称 岸ノ和田城、滕城、蟄亀利城、千亀利城
築城 応永年間(1394年〜1428年)
住所 大阪府岸和田市岸城町9-1
電話番号 072-431-3251
開館時間 10:00〜17:00(入館は16:00まで)
休館日 毎週月曜日(祝日を除く)、年末年始(12月29日~1月3日)
登閣料 大人300円/中学生以下無料
岸和田城への交通アクセス
南海本線「蛸地蔵」駅から徒歩約7分。

HISTORY 戦国時代は有名な武将も滞在した岸和田城

岸和田城は現在の大阪府岸和田市岸城町に存在していた平城です。
大阪府の城といえば大阪城が有名ですが、岸和田にも城があり和泉国南郡・日根郡などを納めた岸和田藩の藩庁として機能しました。また、戦国時代には石山本願寺攻めの拠点となり、織田信長など有名な武将も滞在しました。そんな岸和田城の歴史を紐解いていきましょう。

江戸時代以前の岸和田城
14世紀の頃、楠木正成に仕えていた南朝の岸和田治氏が岸和田を開拓して入植を始めたという記述が残っています。 また、楠木正成の甥にあたる和田高家という人物が岸和田城の前身となる城を築いたという伝説が残されていますが、そのことを裏付ける資料はなく遺構も発見されていません。 平成18年(2006年)~翌19年(2007年)にかけて岸和田城の前身であると伝わる「岸和田古城」の発掘調査がおこなわれ、築城が15世紀末~16世紀初頭であることがわかりました。
つまり、岸和田に城ができたのは1400年代末期のことで和田高家という人物が生きていた頃とは100年近く開きがあります。 また、明応9年(1500年)に、和泉上守護細川元有と和泉下守護細川政久が畠山尚順に攻められ岸和田城で討ち死にしたという記録が残っていることから、この頃は岸和田古城が築城されていたのではないかと推測されます。 なお、和泉守護細川家とは応永15年(1408年)に和泉国の上下半国守護となった家であり、以降戦国時代に織田氏がこの地を支配するまで細川氏が守護代であった松浦氏と岸和田の地を取り合って戦を繰り返しました。
このときに。岸和田古城は増築を繰り返して規模が大きくなっていったと考えられています。 16世紀半ば、岸和田の地は阿波国、讃岐国、淡路国など四国から摂津国(現在の大阪)、京への交通の要となっており、岸和田の支配権を巡って三好氏・松浦氏・細川氏などが争い、城の持ち主も頻繁に変わりました。
そして、天正4年(1576年)織田信長による石山本願寺攻めが起こります。織田氏を指示する毛利氏は船で貝塚へ兵糧を送り、これを阻止するためにそのとき岸和田城の城主であった松浦光は、沼間氏や寺田氏などと共に和泉水軍としてこれに立ち向かいますが、大敗しました。これが第一次木津川口の戦いです。 石山本願寺を滅ぼした織田信長は2年後の天正5年(1577年紀州征伐を行い、紀伊方面の抑えとして織田信張を佐野砦に置きます。織田信張はそのご岸和田古城に移り、岸和田は織田氏の配下となりました。
織田信長が本願寺で討ち死にした後、天正11年(1583年)豊臣秀吉は、岸和田城を中村一氏の配下に置いて根来衆、雑賀衆、粉河衆などの一揆衆討伐を命じます。 天正12年(1584年)、と豊臣秀吉が小牧・長久手の戦いの戦いに出陣している間に根来衆、雑賀衆、粉河衆連合軍は総数3万の兵を率いて岸和田城に攻め込んできました。
その際、城を任されていた中村一氏と松浦宗清は城兵8.000で3万の兵を退けます。このとき、タコに乗った法師と数千万のタコが紀州軍を退けたという伝説が残されており、現在も岸和田にある「天性寺」という寺院がこのときタコとともに現われた法師を祀り、「蛸地蔵」という別名で進行を集めています。 豊臣秀吉は根来衆、雑賀衆、粉河衆連合軍を追討するため、天正13年(1585年)に岸和田城に入り、貝塚にあった城を全て攻略して大阪南部を平定します。 その後、秀吉は自身の伯父である小出秀政を岸和田城の城主と定め、最終的には3万石に増石させました。 この時期に現在の場所に岸和田城が築かれ、天守閣なども造られています。
江戸時代の岸和田城
豊臣一族が直接治めていた岸和田城は、慶長19年(1614年)には大坂冬の陣では松平信吉が城主となり、のちに北条氏重、その後は小出吉英、元和5年(1619年)松平康重と頻繁に城主が変わります。 その後、寛永17年(1631年)に高槻城より岡部宣勝が入城し、6万石を与えられて岸和田城の城主になります。そして、岡部氏が13代にわたって明治時代まで城主を務めました。 なお、岡部宣勝の入城は紀州城を監視するためにおこなわれたという説もあります。
岸和田城は和歌山城と大阪城の中間にあり、岡部宣勝が徳川家康の妹の子どもであったという通説から生まれた伝説ですが、真相は定かではありません。
明治以降の岸和田城
明治維新を迎えた後、岸和田城の建物はほぼ全て取り壊されました。 現在残っている近世以前の遺構は掘りと石垣くらいです。
城跡は昭和18年(1943年)に大阪府指定史跡となり、昭和29年(1958年)に天守閣が再建されました。なお、当初は五重の天守を復元する予定でしたが、予算不足のために三重となりました。
また、城跡には昭和28(1957年)作庭家の重森三玲氏が岸和田城庭園(八陣の庭)を作庭し、平成26年10月6日付けで国の名勝に指定されました。 なお、これとは別に二の丸公園という多目的スペースもあり、各種イベントが開催されるなど市民の憩いの場となっています。

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紀州征伐

岸和田城を藩庁とする、岸和田藩の歴史

岸和田藩大阪南部を治め紀州を監視した
岸和田藩は、和泉国南郡・日根郡などを領有した藩です。江戸時代、大阪には高槻城、大阪城、岸和田城の3つの城があり、大阪城は将軍自ら城主をつとめ、岸和田城は徳川家康の妹の子どもという通説がある岡部宣勝を祖
岸和田藩
岸和田藩DATA
藩庁 岸和田城
旧地域 和泉国南郡・日根郡
石高 6万石
譜代・外様 外様・譜代
主な藩主 小出家、松平家、岡部家
推定人口 6万3000人(明治元年)
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