郡山城奈良県大和郡山市

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郡山城DATA
別称 雁陣之城
築城 1162年
住所 奈良県大和郡山市城内町
郡山城への交通アクセス
近畿日本鉄道「近鉄郡山」駅から徒歩約7分。
JR「郡山」駅から徒歩約15分。

HISTORY 羽柴秀長の居城でもあった郡山城

郡山城は、奈良県大和郡山市にあった平城です。豊臣政権の頃は豊臣秀吉の異父弟羽柴秀長(豊臣秀長)の居城でもありました。江戸時代は郡山藩の藩庁として機能し、現在は桜の名所としても有名です。 そんな郡山城の歴史を紐解いていきましょう。

郡山の誕生から郡山城築城まで
郡山の地は、鎌倉[美末1]時代後期ごろから郡山衆と呼ばれる土豪集団が居館を構えていたと記録に残っています。「郡山」という地名は、東大寺の荘園であった薬園荘から「郡山荘」が正安二年(1300年に)独立して誕生しました。当時、郡山には向氏、戌亥氏、矢興氏など複数の土豪がおり、雁行状に居館を築いていました。そのため、居館郡は「雁陣の城」とも呼ばれ、郡山城の最も初期の姿ともいわれています。
その後、土豪の勢力は正長2年(1429年)に勃発した大和永享の乱をきっかけに争うようになり、やがて筒井氏と越智氏の2大勢力が台頭します。そして両家が和解すると郡山の土豪は筒井氏の配下になります。
永禄2年(1559年)松永秀久が大和国に進入してくると郡山に城を構えていた「郡山辰巳」という土豪が筒井氏から離反し、松永秀久に下ります。永禄8年(1565年)、筒井氏の当主であった筒井順慶と松永秀久の間で「筒井城の戦い」が勃発しました。この戦いは永禄11ン年(1568年)まで続き、松永秀久は織田信長の後押しをうけて筒井城を落城しました。
このとき、郡山をはじめとする大和の国は一度松永秀久の支配下となります。しかし、元亀2年(1571年)、辰市城の合戦で松永秀久が敗北すると筒井氏の当主であった筒井順慶は明智光秀の取りなしによって織田信長へ帰属し、筒井城への帰城を許されました。
天正7年(1579年)、筒井順慶は居城にしていた筒井城拡張を試みますが立地の不便さから断念し、改めて郡山城を本城とする改修を開始します。そして翌天正8年(1580年)に天守ができあがり、現在城址が残る郡山城が誕生したのです。
なお、同年織田信長は破城令を出して筒井城の破却を命じています。さらに、翌天正9年(1581年)には、明智光秀が普請目付となってさらなる改築工事に着手した記録も残されています。しかし、松永秀久に敗れたものの筒井城に再び帰城を許され、郡山の支配者となった筒井順慶は天正12年(1584年)に死去、その後養子の筒井定次は豊臣秀吉の命により伊賀上野城へ転封となりました。 支配者がいなくなった郡山の地は豊臣秀吉の異父弟羽柴(豊臣)秀長に与えられ、秀長は大和国・和泉国・紀伊国三ヵ国を治める100万石を超える大大名になります。秀長は郡山城に入ると、100万石にふさわしい城に改築しようと拡大工事をすすめました。城郭だけでなく大規模な城下町の整備も行っています。そのため、建築資材としての石が不足して天守閣の石垣には墓石や地蔵まで用いられた形跡が残されています。
この時代の郡山城は天守のほか、毘沙門曲輪、法印曲輪、麒麟曲輪、緑曲輪、玄武曲輪など多くの曲輪が築かれていました。これは、郡山城は豊臣家の重鎮の居城というだけでなく、大阪城を防衛するための役割を担っていたという説もあります。
郡山城の改築が一段落すると、羽柴秀長は奈良市内に散っていた商売人たちを郡山城下に集め、魚塩町、堺町、柳町、今井町、綿町など十四町を整備して住まわせます。 しかし、天正19年(1591年)に羽柴秀長が没し、養子豊臣秀保も文禄4年(1595年)に死去すると羽柴秀長の家は断絶してしまいました。
江戸時代の郡山城
羽柴秀長の血統が断絶した後、郡山城には五奉行の1人である増田長盛が入ります。しかし、長盛は慶長6年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍に味方したため、高野山へ追放となりました。徳川家康によって郡山城の建築物の多くは伏見城、天守は二条城に移され、領地は奈良奉行所の管轄下に入り大久保長安が在番しました。
その後、大阪の陣が勃発した際は郡山城も戦場となります。このとき、城を預かっていたのはかつて郡山を治めていた筒井家の一族、筒井定慶・慶之の兄弟でした。二人は徳川家に着いていましたが、戦慣れした豊臣軍に攻め込まれて逃走します。徳川家康が大坂の陣で勝利し、豊臣家を滅ぼすと筒井定慶・慶之の兄弟は自害したとも自殺したともいわれています。
大阪の陣の後、戦で荒廃した郡山城は水野勝成や松平忠明、本多政勝といった大名達によって修復され、城下町は羽柴秀長が治めていた時代よりも小規模なものの、賑わいを取り戻しました。 3つの家が郡山城を建て直した後、側用人柳沢吉保の長男、柳沢吉里が藩主となり、最終的に柳沢家が幕末まで藩主となって柳沢家が郡山藩を治め続けました。
近世以降の郡山城
明治時代になると、廃城令の発令によって郡山城は廃城になりました。城の敷地には中学校や高等学校が移転されますが、昭和28年(1953年)より追手門などが復元されたり、本丸・毘沙門郭・法院郭・陣甫郭・玄武郭などが奈良県指定文化財に指定されたりします。
現在は天守台、追手門・追手向櫓・追手東隅櫓が復元されて郡山の観光名所になっています。 また、郡山屈指の桜の名所としても知られており、「日本さくら名所100選」にも指定されました。毎年開花の頃にはお城祭が開かれ、沢山の観光客が訪れています。
まとめ
郡山城は大阪に近いこともあり、豊臣家の重鎮羽柴秀長をはじめとする有力大名に与えられていた時期もありました。江戸時代に入ると最終的に五代将軍徳川綱吉の側近、柳沢吉保の長男を祖とした柳沢家が藩主となり、幕末まで治めました。
廃城令の発布により明治時代に建物のほとんどは取り壊されてしまいましたが、昭和28年より長きにわたって復元工事が行われ、現在は石垣や櫓など当時を偲ばせる建物が復元されています。平成19年(2017年)、続日本百名城にも指定されました。現在は桜の名所としても有名で、開花時期にはたくさんの観光客が訪れます。

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郡山藩
郡山藩DATA
藩庁 郡山城
旧地域 大和国
石高 15万1000石
譜代・外様 譜代
主な藩主 水野家、松平家、本多家、柳沢家
推定人口 10万人(明治元年)
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