HISTORY
津城について
津城は三重県津市の中心部に位置していた城です。織田信長の弟、織田信包によって築城され、1611年に築城の名手と呼ばれた藤堂高虎の手によって大規模な改修が行われました。そして、明治になり廃藩置県が行われるまで津藩の藩庁であり続けたのです。今回は、津城、そして津藩の歴史をひもといていきましょう。
- 戦国時代の津城
- 津は古称を「安濃津」といい、平安時代から伊勢国の政治経済の中心地でした。この地を鎌倉時代から支配したのは、藤原氏の流れを汲む長野工藤氏です。長野工藤氏の一族である細野藤光という武将が永禄年間(1558年 - 1569年)に建てた小規模な安濃津城という城が、津城の始まりとなりました。
永禄11年(1568年)、織田信長が伊勢に侵攻します。このときに織田掃部頭(津田一安)が安濃津城入城し、翌年には織田信長の弟である織田信包が入城しました。織田信包は城の改築に着手します。城郭を拡大して堀を造り、石垣を普請して本丸・二の丸・三の丸を整備しました。天正5年(1577年)には5重天守と小天守を落成させます。なお、織田信長の妹であるお市の方が浅野家が滅ぼされた後、3人の娘と実母と共に津城で暮らした、という説がありましたが、現在は守山城で暮らしていたというのが定説になっています。
- 安濃津城の戦い
- 織田信長の死後、武士の頂点にたった豊臣秀吉が文禄3年(1594年)に、織田信包を津から丹波国柏原に移します。主を失った津城には文禄4年(1595年)7月に豊臣家家臣の富田一白という人物が6万石を与えられて入城しました。慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いが起こると富田一白の一子、富田信高が東軍につきます。そのため、津城は西軍についていた毛利秀元・長宗我部盛親軍3万に包囲されてしまいました。迎え撃った富田信高の軍はわずか1,300人であったため、津城は建物の大半を焼失します。富田信高はその後、木食応其の調停により津城を開城しますが、江戸幕府成立後、この戦いを評価されて2万石の加増を受けることができました。
- 藤堂高虎の改築
- 慶長13年(1608年)、富田信高は伊予宇和島藩に国替えになりました。代わって津藩に入城したのが、伊予今治藩より国替えしてきた藤堂高虎です。石高は伊勢・伊賀合わせて22万石でした。藤堂高虎は築城の名手であり、入城後に津城を輪郭式の城郭に変貌させ、城下町を整備しました。今も「津城跡」として「お城公園」内に残っている遺構は藤堂高虎が築城したものです。その後、藤堂高虎は大阪の陣で功を立てて元和元年(1615年)と元和3年(1617年)にそれぞれ5万石ずつの加増を受けて32万3,000石まで出世しています。
- 江戸時代の津城
- 藤堂高虎が改築した津城は、その後江戸時代を通して藤堂家の居城となり津藩の藩庁になります。津城は関ヶ原の戦い以来天守が消失したままになったと考えられてきましたが、近年の研究で寛永年間(1624年 - 1643年)に描かれた絵図の中に三重天守と二重小天守がある津城が描かれていることが分かりました。この天守閣は藤堂高虎ではなく富田氏が再建したものと考えられています。なお、この天守閣は寛文2年(1662年)の火災で焼失しましたが、再建されることはありませんでした。
- 明治以降の津城
- 明治4年(1871年)廃藩置県により廃城となりました。建物は順次壊されて城跡は「お城公園」として日本庭園などが整備されます。そして、昭和33年(1958年)に丑寅櫓が復元されましたが、これは江戸時代に現存していた櫓とは全く異なるものです。しかし、在りし日の津城の姿を想像することができます。また、現在本丸跡の日本庭園入口にある収入利の門は、藩校有造館の正門の入徳門が移築されものです。
津城と関連する人物記を読む
- 藤堂高虎多数の主君に仕えた築城の名手
- 藤堂高虎は弘治2年(1556年)、近江国(滋賀県)犬上群藤堂村において、藤堂虎高の次男として誕生しました。幼名を与吉といいます。父の虎高は、近江鯰江城主だった三井乗綱の次男として生まれますが、若い頃は