桑名城三重県桑名市

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桑名城DATA
別称 扇城、旭城
築城 1601年
住所 三重県桑名市吉之丸5-1
桑名城への交通アクセス
JR関西本線・桑名駅から徒歩約15分。

HISTORY 海上の名城と呼ばれた東海道の要所「桑名城」

桑名城は三重県桑名市に存在した平城です。戦国時代から京都と関東を結ぶ要所として織田信長をはじめ多くの武将達が獲得に力を入れてきました。今回は、桑名城の歴史をひもといていきます。

桑名城の始まり
戦国時代、桑名の地は北勢四十八家と呼ばれる小規模な領主や土豪が細かく土地を分割して治めていました。桑名には東城・西城・三崎城という3つの城があり、そのうちの「東城」が江戸時代に建てられた桑名城の起源と伝えられています。東城は永正10年(1513年)に伊藤武左衛門という豪族でしたが、その後天正2年(1574年)に織田信長が桑名を征服すると、東城をはじめとする三城は信長の配下である滝川一益が城主となって治めるようになりました。豊臣秀吉が天下を取ると、三城の城主は一柳直盛、氏家貞和、松平家乗など短期間で次々と変っていきます。
そして、豊臣秀吉の死後天下を取った徳川家康は、慶長6年(1601年)に徳川四天王の1人本多忠勝に10万石を与えて桑名の地に封じました。
江戸時代の桑名城
徳川家康より桑名の地を賜った本多忠勝は、揖斐川沿いに城郭の建造を開始します。揖斐川から直接入城できるように船着き場も整備され、4重6階の天守をはじめ51基の櫓、46基の多聞が作られました。桑名は名古屋の熱田と海路で結ばれた交通の要所です。西国の大名が反乱を起こし江戸に攻め入ろうとした場合、桑名城を落とさなければ伊勢湾を渡ることはできません。ですから、桑名は東海道の要所として関ヶ原の合戦後に作られた城としては実戦に十分備えられる作りとなっています。
桑名城は揖斐川の河口付近に川に突き出すように建てられており、その有様が海の上に浮かんでいるように見えることから「海上の名城」として東海道の名所となりました。本多忠勝の孫に当たる本多忠刻がこの城で七里の渡しをわたっていた豊臣秀頼の妻、千姫に見初められて結婚をしたという逸話も残っています。また、歌川広重の東海道五十三次の「桑名」には、海上から見た桑名城の姿が描かれており、当時の様子を想像することができます。
桑名城は本多忠勝の嫡子に当たる本多忠正が播磨姫路に威風された後、徳川家康の異母兄に当たる松平定勝が新しい藩主として入城します。元禄14年(1701年)桑名の城下町が大半焼失する火災が発生し、この際桑名城の天守も焼失して囲碁再建されることはありませんでした。
桑名城は松平氏が藩主を務め続けましたが、幕末になると一貫して旧幕府軍側につき、藩主たちは京都所司代などを務めます。そのため、大政奉還の後の慶応4年(1868年)鳥羽・伏見の戦いに旧幕府軍が破れた後、明治政府軍に取り囲まれ無血開城を選択しました。明治政府は、この際桑名城のシンボルであった辰巳櫓を降伏の証しとして焼き払います。
明治時代以降の桑名城
辰巳櫓を失った桑名城は明治4年の廃藩置県後、残った建物のも徐々に取り壊されます。この時期廃城となり主要な建物を失った城郭は日本全国に数多くありますが、桑名城は石垣も四日市港の堤防を作るために取り壊されました。そのため、多くの城跡に残る石垣も、桑名城跡には存在していません。
昭和3年(1928年)に本丸・二之丸一帯を整備され九華公園となりました。また、昭和17年(1942年)には三重県の史跡に指定されます。また、平成15年(2003年)に国土交通省水門統合管理所が建造される際、蟠龍櫓が再建されました。また、桑名城の石垣が使われた四日市港の「潮吹き堤防」は国の重要文化財に指定されています。
現在の桑名城址は、本多忠勝像 ・松平定綱を祀った鎮国守国神社・照恩寺山門などが残されています。また、桜や菖蒲など四季折々の花が植えられており、桑名市民の憩いの場になっています。

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桑名藩
伊勢桑名藩DATA
藩庁 桑名城
旧地域 伊勢国桑名
石高 11万3,000石
譜代・外様 譜代
主な藩主 本多氏、松平氏
推定人口 6万5000人(明治元年)

徳川四天王のひとりと言われる本多忠勝が立藩。2代本多忠政が大坂夏の陣での功績により加増の上姫路に転封。徳川家康の異父弟の松平定勝が入封、以後松平家が入部。幕末の松平定敬は松平容保の弟である。

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