亀山城三重県亀山市

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亀山城DATA
別称 粉蝶城
築城 1265年
住所 三重県亀山市本丸町575-2
亀山城への交通アクセス
東海旅客鉄道(JR東海)関西本線・紀勢本線亀山駅から北へ徒歩10分。

HISTORY 桜や積雪が遺構を彩る亀山城について

伊勢亀山城は、三重県亀山市本町にあった平城です。粉蝶城という別名も持っています。鎌倉時代に関氏によって築城され、戦国時代は織田信長の伊勢侵攻によりたびたび戦場にもなりました。江戸時代になると伊勢亀山藩の藩主の居城となり、東海道の要所でもあったことから将軍家の宿泊所としても利用されています。今回は、伊勢亀山城と伊勢亀山藩について詳しく解説しましょう。

戦国時代までの伊勢亀山城
伊勢亀山城は、文永2年(1265年)に伊勢の豪族である関実忠によって伊勢国鈴鹿郡若山に築城されたのが始まりと伝えられています。伊勢平氏の流れをくみ伊勢を治めていた関氏は、やがて現在の場所に城を移して関氏五家を束ねる宗家の居城となりました。
戦国時代に入ると、伊勢は織田信長の侵攻を受けます。永禄10年(1567年)の戦を皮切りにたびたび伊勢亀山城は戦場になりました。織田信長が伊勢を平定した後、天正11年(1583年)には蒲生氏郷が伊勢亀山城の城主として入城しています。
その後、豊臣秀吉が天下を治めるようになると天正18年(1590年)に岡本良勝が蒲生氏郷に代わって城主になります。このとき、天守・本丸・二の丸・三の丸などが増築され、現在も遺構として残っています。
江戸時代の伊勢亀山城
徳川家康が江戸幕府を開くと、伊勢亀山城は伊勢亀山藩を治める藩主の居城になりました。また、東海道五十三次の「関宿」が近くにあるため、江戸時代初期には将軍家の宿泊所としても利用されています。家康・秀忠・家光の三将軍が実際に亀山城に宿泊しました。なお、江戸時代初期、出雲松江藩二代目藩主の堀尾忠晴が丹波亀山城と間違えて伊勢亀山城の天守を取り壊してしまうというハプニングがありました。取り壊された天守はその後再建されることなく、寛永13年(1636年)、城主となった本多俊次の手で大改修が行われた際に天守台に多門櫓が建造されます。
明治時代以降の伊勢亀山城
明治時代になると、伊勢亀山城は廃城令によってほとんどの建物が取り壊されてしまいます。現在、当時の面影を残す遺構は天守台・多聞櫓・石垣・堀・土塁などだけです。なお、多門櫓は城があった当時のままに残されている中核的城郭建築としては、三重県下で唯一の存在であり、全国的にも珍しいものです。そのため本丸南東の天守台と多聞櫓本体を併せて、「旧亀山城多聞櫓」として三重県の史跡に指定されています。
そのほか、二の丸御殿玄関は、西町の遍照寺本堂に移築されています。
現在の伊勢亀山城址
伊勢亀山城の遺構には、市役所など自治体の建物が建っています。亀山公園内の公園池は城の外堀であり、手門跡・太鼓門跡などの標柱も街のあちこちに見ることができるので探してみるのも面白いでしょう。平成18年(2006年)には、二の丸帯曲輪やその周辺部分が江戸時代末期の状態に復元されています。平成23年(2011年)からは、多門櫓の復元修理が始まり、櫓の壁を板壁からしっくい壁にするなど江戸時代末期の姿に復元されました。また、平成13年(2001年)から「亀山城桜まつり」が毎年開催されており、桜と多門櫓の組み合わせを楽しむことができます。このほか、冬になって雪が降ると安藤広重作、東海道五十三次の浮世絵にあるような雪の亀山城を見ることができ、観光客に人気です。

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伊勢亀山藩
伊勢亀山藩DATA
藩庁 亀山城
旧地域 伊勢国鈴鹿郡亀山
石高 6万石
譜代・外様 譜代
主な藩主 関氏、岡本氏、本多氏、石川氏
推定人口 4万6000人(明治元年)

東海道亀山宿を擁する交通の要所。奥平松平家をはじめ、譜代大名が置かれた。

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