二条城京都府京都市

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二条城DATA
別称 旧二条離宮、恩賜元離宮二条城
築城 1603年
住所 京都府京都市中京区二条城町541
電話番号 075-841-0096
開館時間 8:45〜17:00(入館は16:00まで)
休館日 12月29日〜31日
登閣料 大人620円/中高生350円/小学生200円
二条城への交通アクセス
地下鉄東西線「二条城前」駅から徒歩約1分。

HISTORY 二条城について

二条城と関連する事件を読む

本能寺の変明智光秀が謀反?謎に包まれた織田信長の死
戦国史最大の謎として知られるのが、天正10年(1582年)6月2日に起きた「本能寺の変」です。織田信長が京都の本能寺(現京都府京都市中京区)で明智光秀に討たれた、戦国時代で最も驚かれたであろうクーデタ
本能寺の変
大坂冬の陣家康を苦しめた真田丸
江戸幕府を開いた徳川家康が主君筋の豊臣家を滅ぼした戦いが「大坂の陣」です。戦国最後となる大戦は江戸時代に入ってから行われました。慶長19年(1614年)の「大坂冬の陣」と、翌年の「大坂夏の陣」からなる
大坂冬の陣
応仁の乱戦国時代のきっかけとなった11年の内乱
室町時代の応仁元年(1467年)から文明9年(1477年)までの約11年間、京都を中心に起こった内乱が応仁の乱です。途中で年号が変わったことから「応仁・文明の乱」と称されることもあります。群雄割拠の戦
応仁の乱
明応の政変戦国時代の幕開けとなったクーデター
日本史の華ともいえる群雄割拠の戦国時代のきっかけとなった事件が、明応2年(1493年)4月に京都で起きた「明応の政変」です。室町幕府8代将軍・足利義政の正室・日野富子と細川政元が将軍をすげ替えたクーデ
明応の政変
永禄の変「剣豪将軍」足利義輝、三好三人衆らに討たれる
永禄8年(1565年)5月19日、三好三人衆と松永久通(松永久秀の息子)が室町幕府13代将軍の足利義輝を殺害したのが「永禄の変」です。この事件は大変衝撃的なもので、日本中に激震が走りました。応仁の乱や
永禄の変
比叡山焼き討ち信長による延暦寺での「大虐殺」
元亀2年(1571年)8月、織田信長は比叡山延暦寺(現滋賀県大津市)を攻め、焼き滅ぼしました。この「比叡山焼き討ち」は当時の史料などによれば数千人の死者を出したとされており、僧侶や男女、子供まで皆殺し
比叡山焼き討ち

二条城と関連する人物記を読む

豊臣秀頼時代の狭間に翻弄された二代目
戦国時代から江戸時代へと移りゆく中、「もし、生まれたタイミングや出生地が違っていれば…」と思わずにいられない武将たちも数多くいました。豊臣秀頼もその1人。父、豊臣秀吉の晩年近くに生まれてわずか6歳で家
豊臣秀頼
細川勝元応仁の乱の東軍総大将
室町幕府を代々治めていた足利将軍家ですが、代を重ねることに徐々に力が弱体化していった末に勃発した応仁の乱。この頃になると、将軍の跡取りなどにも幕臣間で争いが起こるなど、政権内にも乱れが生じるようになり
細川勝元
山名宗全応仁の乱の西軍大将
室町時代の中期、俗に戦国時代と呼ばれる前の時代のお話です。室町幕府を支える四職の一つ、山名家に一人の傑物が誕生しました。山名宗全です。宗全は3男に生まれましたが、家督を継ぐと勢力を伸ばしていきました。
山名宗全
日野富子将軍の御台所と母親になった女性
室町時代、将軍の権力は大を追うごとに弱体化していき、幕臣が力を持つようになっていきました。その中で、日野富子は8代将軍・足利義政の正室として、9代将軍・足利義尚の母として大いに権力を奮います。「歴史上
日野富子
細川政元戦国時代の口火を切った男
日本の室町時代後期、俗に戦国時代と呼ばれる時代。戦国時代は応仁の乱から始まったと言われています。ところが厳密には応仁の乱が終わった後も足利将軍家には力がありました。ところが将軍の権威を落した人物がいま
細川政元
足利義輝剣豪と呼ばれた室町幕府13代将軍
応仁の乱の後、徐々に室町幕府の権威は落ちていきます。同時に各地の有力武将や国人などが徐々に力を増し、将軍としての力の衰退も見られるようになりました。そんな中、室町幕府13代将軍となった足利義輝は、三好
足利義輝
足利義昭室町幕府最後の将軍
応仁の乱後、室町幕府の求心力はより低下して、日本各地に有力武将が台頭します。それぞれの地域をまとめ上げた武将は戦国大名となり、天下を獲るために京の都への上洛を目指しました。そんな中、室町幕府最後の将軍
足利義昭

二条城を居城とする、徳川幕府の歴史

江戸幕府最後の武家政権
江戸幕府は慶長8年(1603年)に徳川家康が征夷大将軍に任ぜられて江戸に開いた武家政権です。鎌倉時代から始まった武家政権の最後であり、徳川家が将軍職を世襲したことから徳川幕府ともいわれています。また、
江戸幕府
徳川幕府DATA
居城 江戸城
旧地域 江戸
石高 400万石
主な藩主 徳川家

二条城、世界遺産となった大政奉還の舞台

京都市中京区にある二条城は、徳川家康が築城を開始した平城です。大政奉還の舞台になったのち、明治時代には皇室の二条離宮となったため、正式名は「元離宮二条城」です。平成6年(1994年)には「古都京都の文化財」として世界文化遺産にも登録されました。

二条城
二条城の歴史
二条城は慶長6年(1601年)、徳川家康が天皇の住む京都御所の守護と将軍上洛の際の宿泊所にする目的で築城を開始した城です。ほぼほぼ完成した慶長8年(1603年)に家康は城に入り、征夷大将軍の就任を祝いました。
元和5年(1619年)には徳川秀忠の娘・和子が後水尾天皇に入内することが決まり、二条城は改修されました。寛永元年(1624年)には後水尾天皇の行幸を迎えるために大改修が始まり、城は現在の広さまで拡張され、新本丸が作られました。この際初代天守は淀城(現在の京都府京都市伏見区)に戻り、廃城となった伏見城の天守が移築されました。また、狩野派の豪華絢爛な障壁画もこの際に描かれたと言われています。
寛永3年(1626年)、5日間にわたる行幸は無事に終了。その後しばらく将軍は不在でしたが、寛永4年(1627年)、後水尾天皇が幕府の許可なく僧に最高位の衣装「紫衣」を与え、幕府が無効とした紫衣事件により幕府と朝廷の関係は悪化。このため寛永11年(1634年)に徳川家光が関係改善をはかり、30万人ともいわれる兵を連れて二条城に入っています。
二条城はその後しばらく将軍を迎えることはありませんでした。その間に天守が落雷で燃え、天明8年(1788年)の天明の大火の飛び火で本丸御殿などが焼失しています。
再び将軍が上洛したのは文久3年(1863年)。14代将軍の徳川家茂が孝明天皇に応えて上洛し、230年ぶりに二条城に入りました。このため文久2年(1862年)から大規模な改修がおこなわれ、二の丸御殿が修復され、本丸には仮御殿が建てられています。
家茂の後をついだ15代将軍・徳川慶喜は江戸城ではなく二条城に政治的な拠点を移行。討幕運動を受け、同年10月に二の丸御殿で大政奉還の意を表明し、朝廷に政権を返上しました。
明治維新後は現在の内閣にあたる太政官代が置かれ、明治4年(1871年)に京都府庁が設置。明治17年(1884年)には皇室の別邸である「二条離宮」となり、明治26年(1893年)に桂宮御殿を本丸に移築し、本丸御殿としました。昭和14年(1939年)には皇室が京都市に二条離宮を下賜し、第二次世界大戦の戦火も免れ現在に至ります。
二条城の見どころ①大政奉還の舞台・二の丸御殿
二条城の一番の見どころは、大政奉還の舞台となった二の丸御殿です。現存御殿は川越城や高知城、掛川城にもありますが、二条城の二の丸御殿は全6棟の建物からなり、部屋数は33、畳はなんと約800畳!国内の城郭に残る唯一の御殿群として、国宝に指定されています。
二の丸御殿は狩野派による、金碧画をはじめとした障壁画や天井画が特徴です。欄干彫刻や飾り金具の装飾も美しく、将軍家にふさわしい豪華絢爛な建物です。
徳川慶喜が大政奉還の意思を表明したのは大広間でのこと。一の間(上段の間)は床の間や違棚などがある書院造らしいスペースで、徳川将軍が座る場所でした。最も格式が高く、天井は二重折上げ格天井になっています。二の間(下段の間)は将軍と対面する武士たちの場所でした。障壁画は松の巨木が主題で、狩野探幽によるものだといわれています。
二条城の見どころ1 二条城の見どころ2 二条城の見どころ3
二条城の見どころ②本丸御殿
本丸御殿は明治26年(1893年)、桂宮御殿の玄関や御書院、御常御殿、台所、雁の間を移築整備したものです。御殿自体は寛政2年(1790年)から1849年(嘉永2年)の間に順次整備されました。離宮時代は明治・大正・昭和天皇やその家族達が訪れ、国の重要文化財にも指定されています。
本丸御殿は平成19年(2007年)から耐震不足で非公開となり、平成29年(2017年)から耐震補強工事と障壁画の修理を実施。令和6年(2024年)9月1日から18年ぶりに一般公開が再開しました。以前は春秋の期間限定公開でしたが、9月からは事前予約制で通年公開しています。
本丸御殿の最大のポイントは、修復で色鮮やかな色合いが戻った障壁画が原画で見学できること。実は二の丸御殿の場合、大広間をはじめとした4部屋の障壁画は保存のためほぼすべて模写障壁画にはめ変えられており、原画は「二条城障壁画 展示収蔵館」で展示公開されています。
本丸御殿の障壁画の作者は、京都御所の障壁画にもかかわった京狩野や円山派、四条派などの江戸時代後期の絵師たち。異なる派閥による精緻で美しい作品は見ごたえたっぷりです。また、シャンデリアや畳の上の絨毯など、和洋折衷の近代的な設備にも注目です。
二条城の見どころ③重要文化財の門
二条城にはさまざまな建物が重要文化財に指定されています。正門の「東大手門」は寛文2年(1662年)頃に改修されたもの。築城当時は2階建ての櫓門だったところ、後水尾天皇行幸の際に、天皇を見下すのは不敬にあたることから平屋になり、その後再び2階建てに戻したようです。
カラフルな「唐門」は二の丸御殿の正門で、切妻造の檜皮葺の屋根に、前後に唐破風が付けられた豪華なものです。破風の欄間には長寿を意味する「松竹梅に鶴」、竜や唐獅子、鳳凰などの縁起物が極彩色の彫刻で彩られています。
二条城の見どころ4 二条城の見どころ5 二条城の見どころ6
おすすめ撮影スポット
広大な二条城のフォトスポットはいくつかありますが、人気なのが美しい彫刻が魅力的な唐門。門の奥には二の丸御殿が望めます。城感が味わえるのが堀越しに撮影する東南隅櫓です。なお、廊下の狭さや文化財保護の観点から、二の丸御殿・本丸御殿内での撮影はNGです。
二条城の見どころ7 二条城の見どころ8 二条城の見どころ9
栗本 奈央子
執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。
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