伏見桃山城京都府京都市

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伏見桃山城DATA
別称 桃山城、木幡山城
築城 1592年
住所 京都府京都市伏見区桃山町大蔵45
伏見桃山城への交通アクセス
JR奈良線「桃山」駅から徒歩約15分。

HISTORY 三度にわたって築城された伏見城

伏見城は、豊臣秀吉と徳川家康によって三度にわたって築城された城です。 豊臣秀吉が最後を迎えた城としても知られています。 江戸時代初めに廃城となってしまいましたが、建物の一部は二条城などに移築されました。 そんな伏見城の歴史を紐解いていきましょう。

指月伏見城
指月伏見城は、天正19年(1591年)に豊臣秀吉が甥の豊臣秀次に関白の位と京都の聚楽第を譲った後、隠居場所として現在の京都府八幡市に築いた屋敷が原型とされています。文禄2年(1593年)にはこの屋敷で伊達政宗と面談したり、徳川家康・前田利家などと茶会を開いたりした記録が残っています。また、聚楽第の城下町からも多数の町人が移動したと考えられており、現在も周辺には「聚楽町」「朱雀町」「神泉苑町」といった地名が残っています。
しかし、同年明との講和交渉が始まり、明の使者に支配者としての威光を示す必要があったことや、豊臣秀頼が生まれたことなどで事情がかわり、屋敷は城へと改修されます。
指月伏見城の正式な築城は文禄3年(1594年)からはじまります。同時に、大坂に通ずる港を造り、巨椋池の中を縦断する小倉堤を築き、その上に道を整備して「奈良街道」を造るなど、城下の整備も行われました。普請奉行には佐久間政実が任命され、全国から石材や木材が集められます。天守や櫓は淀古城より移築されました。
指月伏見城築城の最中、文禄4年(1595年)豊臣秀次が切腹する事件が発生し、聚楽第が破棄されます。そこからも建物が移築され、さらに向島に伏見城の支城である向島城が建築されました。
文禄5年(1596年)指月伏見城はほぼ完成し、大名屋敷をはじめとして城下町の整備も進んだ頃、慶長伏見地震が発生し、天守の上二層が倒壊する大きな損害が発生します。城内で多数の死者も出たため、豊臣秀吉等は指月伏見城から北東の1kmにある高台、木幡山に仮の住まいを造りました。ここが、後に木幡山伏見城となります。
木幡山伏見城
木幡山伏見城は、慶長伏見地震で倒壊した指月伏見城から建材を移築する形で急ピッチで築城が進められた城です。なお、後年の資料を根拠に木幡山伏見城への移築は地震前から計画されていたという意見もあります。木幡山伏見城は慶長2年(1597年)5月には天守閣と殿舎が完成し、同年10月には茶亭が完成したと記録に残っているので、築城から1年少しで主な建物が完成したことになります。なお、この時期聚楽第の破棄、名護屋城の築城、京都の方広寺大仏殿の建築、大阪城三の丸の築城が同時進行で進められていました。天下統一を果たした豊臣秀吉の支配力と財力がいかに強大であったか分かる事例です。
豊臣秀吉は、天守閣が完成した慶長2年(1597年)に伏見城に移り住み、大阪城と伏見城を行ったり来たりする生活を始めますが、晩年は伏見城で過ごす時間が増え、慶長3年(1598年)に伏見城で没しました。
徳川家康が再建した伏見城
豊臣秀吉が病没すると、豊臣秀頼は大阪城に移ります。徳川家康が留守居役として一時期伏見城に入りますが、慶長4年(1598年)9月に大阪城に移ると、他の大名達もこぞって大阪に移り、伏見の町は寂れていきました。
慶長5年(1600年)に徳川家康が会津征伐に出立すると、関ヶ原の戦いの前哨戦として知られている伏見城の戦いが勃発します。小早川秀秋、島津義弘連の連合軍は鳥居元忠が城代を務める伏見城を攻め、鳥居元忠は討死しました。戦の指揮を執った石田三成は伏見城を焼き払ったと記録にありますが、現在も徳川家臣の血痕が残る床板を天井に流用したと伝わる「血天井」が、京都市東山区の養源院など複数の寺院に残っています。
関ヶ原の戦いに勝利した後、慶長6年(1601年)に徳川家康は伏見城の再建と二条城の築城を開始します。普請奉行には築城の名人といわれた藤堂高虎が任命され、同年の年末にはほぼ再建が終ったと記録に残っています。城の規模はやや縮小され、屋根瓦には豊臣家の桐門が入った物が再利用されました。伏見城の再建とともに、大名屋敷も再び整備され、新たに大名に任じられた人々が伏見に移り住んできます。
慶長8年(1603年)に徳川家康は伏見城で征夷大将軍の宣下を受け、それから3代目将軍、徳川家光までは伏見城で将軍宣下を受け続けます。慶長10年(1605年)伏見城で朝鮮使節と面談し、豊臣秀吉の朝鮮出兵で悪化していた朝鮮との関係を回復しました。同年、二条城が完成すると徳川家康は一旦二条城に移り住むも、また伏見城に戻ります。そして、慶長11年(1606年)駿府城が改築されると徳川家康は、駿府城へ移り住みました。それと共に、伏見城は徳川家康の異父弟、松平定勝が城代になります。
大阪の陣が徳川方の勝利に終わると、伏見城はしばらく二条城と共に将軍が上洛した際の滞在場所として使われていました。しかし、一国一城令を幕府が発令したことや、維持が困難になったことを理由に、伏見城は廃城となり、天守は二条城に、そのほかの建物も福山城、淀城などに移築され、伏見城は取り壊されました。なお、二条城の天守は寛延3年(1707年)に落雷により焼失し、現在は天守台だけが残っています。 なお、廃城に伴い、一時的にあった伏見藩も廃藩となりますが、その後この地は「伏見奉行」が置かれ、明治時代まで幕府の直轄地となりました。
現在の伏見城
明治45年(1912年)明治天皇が崩御されると、遺体は伏見城本丸跡地に葬られ伏見桃山陵となりました。
昭和39年(1964年)伏見城花畑後に伏見城の小天守や櫓門などを鉄筋コンクリート製で復元し、ジェットコースターやプールも備えた「伏見桃山キャッスルアイランド」が誕生します。遊園地は2003年に閉園しましたが、跡地は「伏見桃山城運動公園」となり、市民の憩いの場になっています。なお、現在の模擬天守閣は耐震強度を満たしていないので内部には入れませんが、映画の撮影などにも使われており、春は隠れた桜の名所になっています。
まとめ
伏見城は秀吉が没し、徳川家康が征夷大将軍の宣下を受けるなど歴史の舞台になった城です。江戸時代初期に廃城となり、本丸跡には明治天皇の伏見桃山陵になったので、当時を偲ぶ建物はなにもありません。しかし、伏見の地は江戸時代酒造の名所として発展し、現在も黄桜など有名な酒造メーカーが酒造りを行っています。

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伏見桃山城を藩庁とする、伏見藩の歴史

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伏見藩
伏見藩DATA
藩庁 伏見桃山城
旧地域 山城国伏見
石高 5万石
譜代・外様 親藩
主な藩主 松平家
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