HISTORY
現在はロケ地としても有名「赤穂城」
赤穂城は、兵庫県赤穂市にあった平城です。「忠臣蔵」で有名な赤穂藩の藩庁でもありました。明治時代に城郭の建物はほとんど取り壊されましたが、現在は三之丸大手門などが復元され、本丸庭園と二之丸庭園は名勝に指定されています。また、時代劇のロケ地としてもたびたび利用されています。そんな赤穂城の歴史を紐解いていきましょう。
- 掻上城の時代
- 赤穂城の前身は、慶長5年(1600年)に池田長政が築城した掻上城(かきあげじょう)と言われています。残された絵図や発掘調査によって存在が明らかになっていますが、時代的に簡素な城郭だったようです。正保2年(1645年)に赤穂藩藩主となった浅野長直が慶安元年(1648年)に築城願を幕府へ願い出て、同年に築城に着手しました。この時代、すでに将軍は徳川家光であり、大阪の陣が終って33年が経過していました。赤穂城はそんな時期に築城が申し出られ、認められた珍しい例です。
- 赤穂城の築城から幕末まで
- 赤穂城は変形輪郭式です。本丸の周囲を二之丸が取り囲む「輪郭式」、北側の三之丸は二之丸北辺に取りつくような形の「梯郭式」という2つの形が組み合わさっています。これは、鉄砲戦を意識した造りで、十字砲火が可能な「横矢掛かり」や「横矢枡形」も数多く用いられています。赤穂城は、浅野家に仕えた甲州流兵学者の近藤正純が縄張りを考え、軍学者の山鹿素行がその仕事を助けました。実際、山鹿素行の助言で縄張りを変えという資料が残っており、発掘調査でその可能性がある遺構も発見されています。
現在の赤穂城は内陸に位置しているように見えますが、築城当時は海岸線がすぐ近くまで来ていたので、海を望む「海岸平城」でした。
赤穂城は、築城から13年後の寛文元年(1661年)に完成しました。天守台は設けられましたが、天守閣は作られていません。これは、実用性を優先したことや当時は天守台を持っているだけで十分家の格式を保てていたためと言われています。
以降、明治時代まで赤穂城は赤穂藩の藩庁として機能し続けました。
赤穂城がほこる施設に、上水道があります。
赤穂城は海岸に築城されたため、海抜が1mと低く堀や井戸の水は海水が混じり飲料には適していませんでした。そこで、はじめて赤穂の地を治めた池田家が熊見川(現・千種川)の上流に井関と水路を建設して上水道を敷設しましたのです。上水は、城内のみならず城下町の家にも給水できるしくみでした。
着工は慶長19年(1614年)完成まで2年の月日がかかったと伝えられています。
この上水道は日本三大上水道の一つともいわれ、その遺構は発掘調査の上整備保存されて観光スポットにもなっています。
- 明治以降の赤穂城
- 明治になると赤穂城は廃城となり、建物は一部の石垣や堀を除いて取り壊され、敷地は民間へと払い下げられました。本丸跡は小学校や旧制中学が建てられ、戦後は1981年まで兵庫県立赤穂高校が建っていました。
昭和30年(1955年)には、現存している写真をもとに大手隅櫓、大手門(高麗門)が復元されます。そして、昭和46年(1971年)に赤穂城跡が国史跡の指定を受けると、他の門や庭園の復元も進められていきます。平成7年(1995年)から始まった二の丸庭園の復元整備は、現在も段階的に進められています。同庭園は国の名勝にも指定され、赤穂を代表する観光名所です。
このほか、現在の赤穂城はドラマや映画のロケ地としても活用されています。
赤穂藩が有名な「忠臣蔵」の舞台となったので忠臣蔵関連のドラマが多いですが、近年は『超高速!参勤交代』(リターンズ含む)などの撮影も行なわれています。
- まとめ
- 赤穂城の城郭は明治時代に一旦全て取り壊されましたが、現在は門や櫓、庭園などの復元が進んでいます。2006年より「光のライトアップ」として架空の天守閣をライトアップするイベントも実行中です。また、赤穂市内には忠臣蔵の中心人物であった大石良雄宅跡なども保管されており、赤穂城と共に観光名所になっています。
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