HISTORY
江戸幕府の象徴、江戸城
江戸城は東京都千代田区千代田にあった平城です。現在は皇居として天皇陛下がお住いになっています。江戸城は徳川幕府の政治の中心として250年にわたって15人の将軍の住まいになりました。そんな江戸城の歴史を紐解いていきましょう。
- 江戸幕府が開かれる前の江戸城
- 江戸城は、長禄元年(1457)に太田道灌が築城してその後は大永4年(1524)に北条氏の支城となりました。太田道灌は、河公方側の有力武将である房総の千葉氏を抑えるために江戸城を築きます。今も残る日枝神社・築土神社・平河天満宮などは江戸城築城のおりに太田道灌が守護の為に勧進したものです。太田道灌の名は、今でも「道灌堀」に残っています。太田道灌が文明18年(1487年)に上杉定正に暗殺されると、彼は江戸城にある太田道灌の嫡男、太田資康を追放して江戸城を自分のものとします。太田資康は、以後20年以上諸国を放浪してようやく永正2年(1505年)に江戸城に戻ってくることができたと伝えられています。
大永4年(1524年)、扇谷上杉氏を破った後北条氏の北条氏綱が江戸城を手中に収めます。当時の江戸城は南には品川湊があり、その南には六浦(金沢)を経て鎌倉に至る水陸交通路があったため、交通の要所として重要視されていました。天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原攻めによって後北条氏が滅亡すると江戸城も開城されます。同年、秀吉によって後北条氏旧領の関八州を与えられた徳川家康が関東に入りました。
当時の江戸城は道灌が築城してから140年の月日が経っていたために荒廃し、江戸の土地も茅原とすすき野が続く寂しい土地であったと伝えられています。徳川家康は、本丸・二ノ丸に加え、西ノ丸・三ノ丸・吹上・北ノ丸を増築、また道三堀や平川を江戸前島中央部(外濠川)へ移設する大増築と土木工事を行い、江戸城を自らの居城に相応しいものに作り替えていきました。
- 江戸幕府が開かれた後の江戸城
- 慶長8年(1603年) 江戸幕府を開いた徳川家康は、天下普請による江戸城の拡張に乗り出します。神田山を崩して日比谷入江を完全に埋め立て、外濠川の工事を行いつつ、全国の大名に命じて石材を運送させて江戸城のさらなる増築を行いました。この時、設計を行ったのが藤堂高虎です。
慶長12年(1607年)には関東、奥羽、信越の諸大名に命じて天守台および石塁の修築を行います。伊達政宗、上杉影勝といった有力な武将たちもこの工事に関わりました。この年に、慶長天守が完成しています。
慶長16年(1611年)、西ノ丸石垣工事を東国大名に課役します。徳川家康はこの時すでに隠居していましたが、跡目を継いだ徳川秀忠も増築を続けます。慶長19年(1614年)、石壁の修築を行いますが、同年大阪冬の陣、翌年大坂夏の陣が行われ、徳川家康は大名の疲弊を理由に3年間は城の普請を中止する決定をしました。
その後、元和4年(1618年)より6年間の元和期天下普請、寛永5年(1628年)から8年間の寛永期天下普請を経て、万治3年(1660年)より神田川御茶ノ水の拡幅工事をもって天下普請は終了しました、じつに50年以上の大工事だったわけです。
その後、明暦3年(1657年) 明暦の大火(振袖火事)により天守を含めた城構の多くを焼失し、以後天守が再建されることはありませんでした。
- 幕末から明治以降の江戸城
- 慶応4年(1868年)に開戦した戊辰戦争のおり、鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍を破った新政府軍は、慶応4年(1868年)3月15日を江戸総攻撃の日と定め江戸城への包囲網を完成させます。しかし、旧幕府陸軍総裁の勝海舟と東征軍参謀である西郷隆盛との会談が実現したことにより、江戸城は攻撃されることなく無血開城しました。
明治元年(1868年)4月11日、江戸城は明治新政府軍に明け渡され、10月13日に東京城(とうけいじょう)に改名されます。その後、明治2年(1869年) 東京奠都により、江戸城は皇城となり明治天皇の住まいとなりました。明治21年(1881年)明治宮殿の完成によって宮城(きゅうじょう)と呼ばれるようになります。大正12年(1923年)9月1日に発生した関東大震災によって江戸時代から残っていた建物の多くが被害を受けます。このとき、倒壊した和田倉門(櫓門)などは復旧されず、修理された櫓門も櫓部分は解体されてしまいました。昭和20年(1945年)アメリカの空襲により大手門が焼失します。昭和25年(1950年)皇居と改名され、現在にいたります。
- まとめ
- 現在の江戸城の敷地は大部分が皇居のため、一般参賀など特別な時をのぞいて一般の方が入ることはできません。しかし。皇居外苑や皇居ランニングコースともなっている公道上からもありし日の江戸城を偲ぶことができます。東京は日本の首都として目まぐるしく変貌を遂げており、江戸時代の面影はわずかに地名や一部の旧跡に残るだけですが、その中でも江戸城(皇居)が宮城になったゆえに江戸の面影を色濃く残している場所といえるでしょう。なお、皇居一帯は江戸城跡として特別史跡にも指定されています。