宇都宮城栃木県宇都宮市

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宇都宮城DATA
別称 亀ヶ岡城
築城 平安時代末期
住所 栃木県宇都宮市本丸町2-24

平安時代に藤原宗円が二荒山の南に居館を構えたのが初めである。近世・江戸時代に改修され、輪郭と梯郭形式を合わせた土塁造りの平城であった。

宇都宮城への交通アクセス
JR宇都宮駅から徒歩で25分。

HISTORY 将軍の宿泊所でもあった宇都宮城

宇都宮城は、栃木県宇都宮市にあった平城です。関東七名城の1つに数えられ、将軍が日光東照宮に参拝する際は、宿舎としても使われました。また、宇都宮の藩庁でもありました。そんな宇都宮城の歴史を紐解いていきましょう。

宇都宮城築城以前の歴史
宇都宮城は、平安時代後期に藤原宗円という人物が二荒山の南に構えた居館が前身、といわれています。藤原宗円は、前九年の役の際に源頼義と源義家に付き従って奥州へ従軍し、軍功によって鬼怒川一帯を領地として賜りました。以後、藤原氏は宇都宮氏となり鎌倉時代を経て室町時代、安土桃山時代に至るまで約530年間、国司や守護としてこの地を支配し続けたのです。 初代、藤原宗円が築いた居城は増築や改築を繰り返して中世城郭となりました。
戦国時代中期になると宇都宮氏は度重なる内乱などによって支配力が低下していきました。17代目当主に当たる宇都宮成綱が宇都宮錯乱と後の世に呼ばれる大規模な内乱を引き起こしつつも、当主による支配体制の強化、家臣団の再編成をして宇都宮氏を再興します。その後、小田原一帯を支配していた北条氏やその家臣の侵略を受けることもありましたが、独立を保ち、豊臣秀吉の支配下に入ります。宇都宮氏と豊臣秀吉の関係は良好で羽柴姓を賜るなどしましたが、慶長2年(1597年)に突如改易されました。その後家臣の蒲生秀行が宇都宮の地を与えられ、城下町の整備を進めて商業都市としての基礎を築きます。
宇都宮城築城
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利して征夷大将軍となると、宇都宮の地は一旦奥平家昌に与えられた後、元和5年(1619年)に本多正純に15万5千石で与えられました。本多正純は、本多正信の嫡子で徳川家康の懐刀といわれた人物です。本多正純は、中世城郭であった宇都宮城を大改築して近世城郭に生まれ変わらせます。 また、日光街道と奥州街道を整備して町割を行い、城内の寺社を街道沿いに移築するなど城の防衛機能向上を図りました。
このほか、宇都宮は徳川家康を祀る日光東照宮への参拝経路だったため、将軍が宿泊する御殿や、城下の宿泊施設増加、整備も行ないます。こうして、宇都宮は門前町や宿場町としての機能も併せ持つことになり、江戸時代を通して繁栄する基礎ができあがりました。
宇都宮城は幕府の意向によって天守は設けず2層2階の清明台櫓を天守の代わりにしていました。しかし、宇都宮城改築後に江戸城内では本多正純が幕府の意向に従わずに宇都宮城を改築しているという噂が流れ、それが現代にも伝わる「宇都宮つり天井事件」へと発展して行くのです。 宇都宮城につり天井が作られた事実はありません。しかし、幕府は宇都宮城の石垣を無断で修理したこと、鉄砲の秘密製造などを理由に本多正純を改易しました。
その後、宇都宮城は宇都宮藩の藩庁となり、奥平氏、奥平松平氏、本多氏、奥平氏、阿部氏、戸田氏、深溝松平などの家がめまぐるしく代わりながら藩主を務めました。 幕末、宇都宮城は戊辰戦争の中で「宇都宮の戦闘」の舞台となり、藩校など一部を残して建物がほぼ全焼します。また、城下町も8割ほど焼失し、寺社仏閣でも多数の損害がでました。
宇都宮の戦闘は、旧幕府軍が日光東照宮を陣地として戦いを挑もうと江戸から北上したこと、下野南部で農民達が興した「打ち壊し」や「世直し」も同様に北上し、鹿沼や今市方面で打ち壊しが起こったことが原因とされています。 宇都宮城はそのまま再建されることなく明治を迎えました。
明治以降の宇都宮城
明治時代に入ると、宇都宮城は一時陸軍の駐屯地になりますが、明治23年(1890年)に民間に払い下げられ、公園として整備されました。城跡は市民の憩いの場となった一方、戊辰戦争での焼失を免れた城門などは解体され、城としての面影はなくなっていきます。それでも、内堀の一部は鯉の養殖や蓮の栽培などに戦後まで利用されていました。昭和21年(1946年)に宇都宮市が戦災都市に指定されたことをきっかけに市街地整備が進みます。市内に残っていた城跡の痕跡は消え、水濠もすべて埋め立てられました。
平成19年(2007年)に宇都宮城本丸の一部が外観復元され、宇都宮城址公園としてリニューアルされます。復元されたのは、本丸土塁の一部と土塁上に建つ富士見櫓、清明台櫓、および土塀です。土塁内部は博物館になっており、宇都宮城に関する資料が展示されています。 なお、天守閣の代わりとなっていた清見台は史実に忠実に復元されたため、建築基準法を満たしていないという理由で、通常は登れません。
まとめ
宇都宮城は、関東七名城の1つに数えられながらも戊辰戦争で焼失、戦後、市街を整備した過程で城跡の痕跡もほとんど消えてしまいました。しかし、現在は復興された土塁や清見台で、当時を偲ぶことはできます。 毎年3月には桜祭りが開かれており、市民の憩いの場であると同時に観光スポットにもなっています。

宇都宮城を藩庁とする、宇都宮藩の歴史

宇都宮藩江戸100藩の一つに数えられた
宇都宮藩は、下野国宇都宮(現:栃木県宇都宮市)に存在した藩です。この地は北関東の交通の要所であるばかりでなく、日光東照宮へ将軍が詣でる際の中継地でもありました。藩庁である宇都宮城には日光東照宮に将軍が
宇都宮藩
宇都宮藩DATA
藩庁 宇都宮城
旧地域 下野国宇都宮
石高 7万7000石
譜代・外様 譜代
主な藩主 宇都宮氏、本多氏、奥平氏、戸田氏
推定人口 6万人(明治元年)

多くの藩主家が入転封を繰り返した後、戸田氏が入封。本多正純の「宇都宮城釣天井事件」が知られる。

日本の城フォトコンテスト.04