HISTORY
日光東照宮を参拝する将軍の宿泊所でもあった壬生城
壬生城は栃木県下都賀郡壬生町にあった平城です。室町時代に壬生氏が建築し、4代将軍徳川綱吉の時代まで日光東照宮に参拝する際の宿泊所の役目も担っていました。
そんな壬生城の歴史を紐解いていきましょう。
- 江戸時代以前の壬生城
- 下野宇都宮氏の家臣で壬生氏の始祖といわれている壬生胤業が寛政3年(1462年)に建築した館が壬生城の前身といわれています。この館の跡は壬生古城とも呼ばれています。二代目当主壬生綱重は館を改築し、城としての体裁が整ったようです。
壬生氏は、5代当主壬生義雄まで壬生の地を治めていました。しかし、天正18年(1590年)に豊臣秀吉が小田原征伐を行った際、後北条氏に味方して小田原城に立てこもり、最後の当主壬生義雄は病死して壬生家は途絶えました。
その後、壬生の地は徳川家康の次男である結城秀康の所領となります。
- 江戸時代の壬生城
- 壬生城は、天守閣も櫓もない簡素な作りの城だったと伝えられています。しかし、日光東照宮が徳川家光によって現在の形に調えられると、江戸から日光東照宮まで参拝のために「日光道中」が整備されました。壬生城は日光道から枝分かれした壬生道[美末1]に位置しています。壬生道は日光道中から日光東照宮までの近道であり、庶民が主に参拝に利用しました。そして、壬生城は日光東照宮に参拝する際の将軍の宿泊所でもあったのです。
そのため、壬生城の御殿は大変豪華な造りでした。
現在の壬生城跡に[美末2]は復元された模型の写真が飾られていますが、城というより壮麗な館のように見えます。
壬生城は壬生藩の藩庁として明治まで機能しました。
- 明治以降の壬生城
- 明治を迎えると、壬生城は本丸を残して堀や土塁は埋め立てられたり壊されたりして宅地や農地に転用されました。残された本丸(鳥居家の別邸)も昭和2年(1927年)に落雷で焼失しています。
その後、壬生城跡は公園として整備される計画がありましたが結局は中学校や図書館、公民館、歴史資料館等の公共施設となり、建築に併せてかろうじて残っていた土塁や堀も亡くなりました。
現在は最後に残された土塁と堀が石垣風に整備されて残っているだけです。城址公園も作られましたが、城が建っていた頃の面影はほとんどありません。
鹿沼市と小山市の民家に城から移築された城門が残っています。
- まとめ
- 壬生城は天守閣も櫓もない館のような城だったため、明治時代に大部分の建物が取り壊され、跡地は中学校などの公用施設に転用されました。そのため、現在の壬生上跡は一部の堀と土塁を残して、当時の面影を偲べるものはありません。壬生城跡にある歴史資料館には、復元された御殿の模型などを見ることができます。