HISTORY
関東7名城のひとつ忍城
忍城は、埼玉県行田市に存在した平城です。忍城という名前は、この地がかつて「武蔵国埼玉郡忍」と呼ばれていたために名付けられました。秀吉の水攻めを耐え抜いたことでも有名で、忍城の攻防は2012年「のぼうの城」という題名で映画化もされました。そんな忍城の歴史を紐解いていきましょう。
- 忍城の築城から江戸時代までの歴史
- 忍城は、室町時代中期の文明年間に成田氏によって築城されたと伝えられています。
成田氏とは、鎌倉時代以前よりこの地を治めていた武家集団の1つであり、扇谷上杉家に属する忍一族とこの地の覇権を争い、勝利したことが築城の理由であったようです。
北を利根川、南を荒川に挟まれた扇状地に点在する広大な沼地や自然堤防を活かした構造になっており、戦国時代を通して一度も落城しなかった難攻不落の城として有名になりました。
ちなみに、遠くから見ると沼地に城が浮いているように見えたため「浮城」という異名があったと伝えられています。
忍城を建築した成田氏は、北条氏が関東に勢力を伸ばしたときに激しく反発する一方、永禄2年(1559年)に上杉謙信が関東に遠征してくると成田氏は恭順の意思を示しました。
しかし、上杉謙信が鶴岡八幡宮で関東管領就任式を行った後に離反します。
その結果、天正2年(1574年)に上杉謙信は忍城を包囲し城下町に火を放ちますが、忍城は持ちこたえました。
忍城の名が有名になったのは、天正18年(1590年)に豊臣秀吉が関東平定を行った際に、起こった籠城戦です。
豊臣秀吉の命を受けた石田三成は、忍城を攻め落とそうと包囲しました。
このとき、城主であった成田氏長は小田原城で籠城していたので、氏長の叔父・成田泰季を城代となり、約500人の侍、足軽に加えて雑兵、農民、町人など3,000人が忍城に籠城したという記録が、「忍城戦記」などに残されています。
忍城の戦いには石田三成のほか、大谷吉継、長束正家、真田昌幸等も加わっていました。
この様子は、2016年の大河ドラマ「真田丸」の中でも描かれています。
石田三成は忍城を水攻めにするべく、総延長28kmにおよぶ石田堤を建設しました。
2012年に公開された映画「のぼうの城」では、石田堤が切られて城が水攻めにあうようなシーンが描かれていますが史実は水攻めが失敗に終り、忍城が耐えている間に小田原城が先に落ちてしまいました。
この戦により、「忍の浮き城」の名が全国的な有名になったのです。
- 江戸時代以上の忍城
- 徳川家康が江戸幕府を開くと、家康の四男の松平忠吉が忍城に配置され忍藩(10万石)が開かれました。
忍城は寛永6年(1639年)より拡張工事が始まり、元禄15年(1702年)までの大工事の末、藩庁にふさわしい城となりました。
忍城の城下町は、中山道の裏街道宿場町、また付近を流れる利根川の水運を利用した物流路として栄えました。
また、忍城の城下町は江戸時代後期より「足袋の産地」として名を馳せます。
その縁があって、テレビドラマ「陸王」の舞台にもなっています。
明治になると廃藩置県が行われ、一時「忍県」が生まれて県庁が二の丸に置かれたが、その後忍県は埼玉県となり、忍城は廃城となりました。
これにより、城内の構造物はほとんどが壊されて更地となり、跡地は公園に整備されました。
戦後、公園には野球場などが作られた時期もありましたが昭和63年(1988年)行田市郷土博物館が開館します。
この際、御三階櫓が博物館の一部として「忍城鳥瞰図」や文献などを元に、鉄筋コンクリート構造によって外観復興されました。
なお、現在も公園内には土塁の一部が当時のままで残っています。
このほか、北谷門が加須市の總願寺に、どこの門かは不明ですが高麗門形式の城門が郷土博物館の駐車場脇に移築され、現存しています。
平成29年(2017年)続日本100名城(118番)に選出されました。
- まとめ
- 現在の忍城は埼玉県行田市の観光名所として武将隊が定期的にパフォーマンスなどを行っています。
また、のぼうの城や陸王など映画やドラマの舞台となったことで、映画ファン、ドラマファンが多く訪れ場所にもなりました。
忍城の建物は門以外現存していませんが、郷土史博物館内で資料を見ることができます。
このほか、公園の南には石田堤も200m前後現存しているので、足を伸ばしてみてはいかがでしょうか。
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