小田原城神奈川県小田原市

小田原城DATA
別称 小峯城、小早川城
築城 1417年
住所 神奈川県小田原市城内
電話番号 0465-22-3818
開館時間 9:00〜17:00(入館は16:30まで)
休館日 12月31日〜1月1日
登閣料 一般510円/小・中学生200円
小田原城への交通アクセス
JR小田原駅・小田急線小田原駅下車、徒歩10分

HISTORY 北条氏の本拠地として歴史に名を残す小田原城

小田原城は、北条氏の本拠地であり豊臣秀吉と北条氏政が壮絶な戦いを繰り広げた場所としても有名です。小田原城は徳川家康が天下を統一した後は明治になるまで、小田原藩の藩庁になりました。今回は小田原城の歴史を振り返ります。

北条氏の居城となる前の小田原城
平安末期、土肥小早川氏の祖といわれる小早川遠平の居城が小田原城の始まりであったという説があります。鎌倉時代、小田原は土肥小早川氏の支配下でしたが応永23年(1416年)上杉禅秀の乱で禅秀方であった土肥氏が失脚すると駿河国に根拠を置いていた大森氏が領地を奪いました。
その後、大森氏は八幡山(現・県立小田原高等学校付近の高台)に山城を築きます。正式な築城年数は不明ですが、15世紀の中頃と伝わっています。
北条早雲の小田原城強奪
明応4年(1495年)、伊豆国を支配していていた北条早雲が大森藤頼から八幡山の山城を奪います。一説によると北条早雲は大森藤頼と友好関係を結んで油断させてから、鹿狩りの勢子に偽装した軍勢を小田原城下に送り、城を乗っ取ったとされています。
北条早雲はこの山城を大幅に拡張したと言われていますが、本人は生涯韮山城を居城にし続けました。
北条氏支配後の小田原城
小田原城が本格的に小田原氏の居城になったのは、北条早雲の息子である北条氏綱の時代からです。以来豊臣秀吉に北条氏政が打たれるまで小田原城は北条氏の居城になりました。小田原氏は現在小田原城の天守があるあたりに屋敷を構え、大森氏から奪った八幡山の城を詰めの城としていたようです。また、小田原城は北条氏の関東支配の中心地として代々の領主が拡張していきました。
小田原城が北条氏の拠点になって以来、上杉謙信や武田信玄からの侵攻を受けます。永禄4年(1561年)の上杉謙信による小田原城包囲、永禄11年(1568年)の武田信玄による駿河侵攻です。北条氏はその両方を激闘の末に退けています。また永禄9年(1566年)から同12年(1569年)にかけて、小田原城を大改築したという記録も多数残されており、上杉、武田の両軍勢の侵攻に北条氏が城を強固にして備えていたことがうかがえます。
豊臣秀吉の小田原征伐
小田原城を舞台にした歴史的に有名な戦いといえば、天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐です。この戦いは豊臣秀吉が天下統一の総仕上げとして、関東を支配していた北条氏政と、その子氏直にたいしてしかけたもので、最終的に北条氏は豊臣秀吉だけでなく、佐竹義重・宇都宮国綱ら関東を治めていた大名達の連合軍とも戦うことになりました。
豊臣秀吉の侵攻に対し、北条氏は城下を9kmに及ぶ総構で囲み、籠城をして対抗します。しかし、秀吉は15万の大軍を持って小田原城を取り囲むと同時に北条氏の配下が治めていた城を各個撃破することで北条氏を追い詰めました。小田原征伐は開戦から約三か月後、小田原城の無血開城をもって終わります。小田原征伐の後、氏政は切腹、氏直は高野山に蟄居となり、北条氏の関東支配は終わりを告げました。
江戸時代の小田原城
小田原氏が滅亡した後、その領地は徳川家康に与えられました。関ヶ原の戦いの後で征夷大将軍に任じられて江戸幕府を開いた徳川家康は、徳川十六神将の1人である大久保忠世に小田原の統治を任せ、4万5千石を与えます。これが、小田原藩の始まりです。小田原城は北条氏の手によって巨大な総籬が作られていましたが、大久保忠世はそれを破棄し、城の規模を大幅に縮小します。また、大久保氏が改易されたおりに、小田原城は壊されてしまいましたが、稲葉氏が入城した際に再整備されました。現在残っている小田原城の遺構は、すべてこのときのものです。
小田原城は江戸時代を通して小田原藩の藩主居城であり、箱根の関所前、関東地方の防御の要として幕府の要所であり続けました。
明治時代以降の小田原城
明治3年(1870年)に廃城となった小田原城は、明治5年(1872年)までに多くの建物が壊されました。その跡地には、小田原・足柄県庁・神奈川県支庁が建てられ、市政の中心地となります。明治34年(1901年)には二の丸跡に御用邸も建てられました。しかし、これらの建物は大正12年(1923)9月の関東大震災で大きな被害を受け、取り壊されてしまいます。また、関東大震災では残っていた石垣も崩壊し、江戸時代の小田原城の面影はほぼなくなってしまいました。
小田原城の再建
廃城による建物の取り壊しと関東大震災によって江戸時代の面影を全てなくしてしまった小田原城ですが、昭和9年(1934)に隅櫓(すみやぐら)が再建されたのを皮切りに、昭和35年(1960)には天守閣が再建されます。さらに、昭和46年(1971)3月に常盤木門が、平成9年10月に銅門、平成21年3月には馬出門が再建され、小田原城は現在でも小田原市のシンボルであり、観光名所であり続けています。なお、小田原城跡は昭和13年(1938)二の丸・三の丸の一部、昭和34年(1959)には昭和13年に指定されなかった部分全てが国の史跡に指定されています。
現代の小田原城
現在の小田原城は城址公園となっており、再建された天守閣や隅櫓・馬出門・銅門・常磐木門を見学することができます。天守閣の内部は資料館になっているほか、歴史見聞館(NINJA館)・常磐木門SAMURAI館、ミュージアムショップなどがあり、歴史を楽しく学ぶことができるでしょう。また、園内には遊園地があり、季節ごとに様々な花が楽しめます。

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小田原城を藩庁とする、小田原藩の歴史

小田原藩歴代藩主の多くが幕閣として活躍
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小田原藩
小田原藩DATA
藩庁 小田原城
旧地域 相模国
石高 11万3000石
譜代・外様 譜代
主な藩主 大久保家・阿部家・稲葉家
推定人口 9万人(明治元年)

徳川家康の関東入りに伴い小田原に大久保忠世が入部。阿部家・稲葉家の後、再び大久保家が入封。

小田原城 北条氏の本拠地だった巨大な難攻不落の城

北条氏の本拠地で、難攻不落の城として知られる小田原城。城域は全国トップレベルの約400haで、全長約9kmの総構を持つスケールの大きな城です。現在は約30haが史跡に指定されており、約11haの小田原城址公園には復興天守がそびえたっています。

小田原城
小田原城の歴史
小田原城の始まりははっきりしませんが、15世紀中頃に駿河(現静岡県)出身の大森氏が城を築き、明応5年(1496年)頃に北条家初代・伊勢宗瑞(伊勢新九郎、俗称北条早雲)が大森氏を下して城を攻略したと言われています。息子の北条氏綱は北条姓に改姓し、北条氏の本拠として小田原城の整備を進めました。
小田原城が難攻不落の城とされるのは、3代目の北条氏康の時代に上杉謙信と武田信玄の武将たちが攻めてきたのを籠城により退けたため。両武将とも小田原城を包囲し、城下に火をつけましたが城は落ちませんでした。
その後、北条氏は力をつけつつあった豊臣秀吉を警戒し、天正17年(1589年)から総構を構築し始めました。総構とは城や城下町の周りを堀や石垣、土塁などで囲ったもので、外郭となる堀などの防衛ラインそのものを指すこともあります。
そして天正18年(1590年)、秀吉が小田原征伐を実施。総構の効果もあり小田原城は約3か月間持ちこたえましたが、結局北条氏は降伏し、小田原城は無血開城します。北条氏が滅びた後は徳川家康の重臣・大久保氏が入りますが後に改易され、城代等を経て寛永9年(1632年)に稲葉正勝が城主に就任します。
寛永10年(1633年)には地震で天守が倒壊しており、同年中に稲葉正則が再建。このころ大手・二の丸・馬屋曲輸の櫓が建てられ、小田原城は改築により近世化していきました。貞享3年(1686年)以降は大久保氏が再び城主となり、幕末まで小田原藩を治めます。
明治維新以降は廃城令により、小田原城は明治3年(1870年)に廃城となり、石垣以外は解体されました。後に城の跡地に御用邸が建ちますが、大正12年(1923年)の関東大震災で石垣とともに崩れ落ちています。
昭和9年(1934年)に隅櫓が再建され、昭和35年(1960年)5月には市制20周年記念事業として復興天守が建てられました。以降も常盤木門や銅門などが次々と整備・復元されており、直近では平成21年(2009年)に馬出門が復元されています。
小田原城の見どころ①天守
現在再建された小田原城の天守は、北条氏時代の独立式望楼型天守ではなく、江戸時代のものです。天守は稲葉正則が再建したのち、元禄16年(1703年)に再び地震で崩れています。宝永3年(1706年)、大久保忠増が複合式層塔型3重4階の天守を再建しており、その天守を江戸時代のひな型や設計図などをもとに再建したのです。なお、再建の際は3重目に史料にはなかった展望用の廻縁と高欄を付け加えています。
城の内部はミュージアムになっており、平成28年(2016年)にリニューアルオープンしています。1階は江戸時代、2階は戦国時代、3階は小田原ゆかりの美術工芸、4階は明治時代以降をテーマにした展示がされています。
5階は中心部に江戸時代の天守にあった摩利支天の安置空間を再現。 廻縁の展望スペースからは360度美しい景色が楽しめ、小田原市内に加えて相模湾や箱根連山、天気が良い日は房総半島などの絶景が拝めます。
小田原城の見どころ1 小田原城の見どころ2 小田原城の見どころ3
小田原城の見どころ②常盤木門と常盤木門SAMURAI館
小田原城の本丸の正門である常盤木門も見どころのひとつ。重要拠点だったことから他の門より大きく、堅固に造られています。現在の常盤木門は、昭和46年(1971年)に完成したもの。元禄16年(1703年)の大地震で崩壊した後に宝永3年(1706年)に再建された門が原型で、明治初期に撮影した写真などから復元しました。門は多聞櫓と渡櫓から構成される桝形門形式になっています。
常盤木門の1階では甲冑や打掛、忍者衣装の着付け体験が可能。2階には2016年に展示をリニューアルしてオープンした「常盤木門SAMURAI館」があり、甲冑や刀剣などの武具が展示されています。
小田原城の見どころ4 小田原城の見どころ5 小田原城の見どころ6
小田原城の見どころ③小田原城NINJA館(歴史見聞館)
北条氏に仕えた忍びの一族といえば、風魔の小次郎に代表される風魔忍者。小田原城にはそんな風魔忍者にちなんだ施設があります。それが平成31年(2019年)にリニューアルオープンした、二の丸の小田原城NINJA館(歴史見聞館)です。
NINJA館では映像や体験展示等を通して忍者について楽しみながら学べます。忍術体験ゾーンでは忍術を実際に体験できるほか、からくり屋敷もあります。実践ゾーンでは手裏剣を投げるゲームもあり、大人から子どもまで楽しめる施設です。
小田原城の見どころ④総距離9kmの総構
小田原城の総構は対豊臣秀吉を想定しており、堀と土塁は総距離9Kmにも及び、江戸城に次ぐ歴代2位を誇ります。堀幅は16m、深さは10m以上で、角度はなんと50度以上。関東ローム層の粘土質の赤土が兵士たちを滑らせる役割を担っていました。小田原征伐を機に総構を設ける城が増えたことから、総構の効果が分かります。
主な総構は「稲荷森」「小峯御鐘ノ台大堀切東堀」「三の丸外郭新堀土塁」「八幡山古郭東曲輪」で、このうち比較的アクセスしやすいのが小田原城址公園近くの八幡山古郭東曲輪です。当時の堀と土塁の様子をとどめる小峯御鐘ノ台大堀切東堀もおすすめですよ。
小田原城の撮影スポット
小田原城のメジャーなフォトスポットは本丸広場から拝む天守。展望デッキからの眺めも最高です。また、八幡山古郭東曲輪からは小田原城と海が同時に撮影できますよ。常盤木橋の赤と桜や花しょうぶの美しいコントラストも人気です。
小田原城の見どころ7 小田原城の見どころ8 小田原城の見どころ9
栗本 奈央子
執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。

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