HISTORY
日本最大級の土の城「水戸城」
水戸城は、茨城県水戸市に建てられていた平城で、日本最大級の「土作りの城」としても有名です。水戸黄門こと水戸光圀が生まれた城でもあり、徳川御三家のひとつ、水戸徳川家の居城としても知られています。そんな水戸城の歴史を紐解いていきましょう。
- 水戸城設立までの歴史
- 水戸城のあった場所は平安時代より「馬場氏」という豪族が居城を構えていました。その後、江戸の地名にもなった江戸氏が馬場氏に取って変わり、水戸城を居城とします。
天正18年(1590年)小田原攻めの功績により所領を安堵された佐竹氏が水戸城を強襲し、江戸氏を滅ぼしました。
水戸の地を手に入れた佐竹氏は、水戸城を増築して現在遺構が残る水戸城の形の基礎ができたといわれています。
なお、佐竹氏は関ヶ原の戦いで東軍にも西軍にも付かず中立を守ったために、江戸幕府の成立後に秋田に転封となりました。
- 明治時代までの水戸城
- 佐竹氏の転封の後、水戸の地は徳川家康の五男である武田信吉に与えられました。
しかし、武田信吉は翌年に後継がいないまま急死したため、今度は徳川家康の十男にあたる徳川頼宣が封じられます。
徳川頼宣はその後紀州に移封され、紀州藩の改組となりますが、水戸もそのまま徳川家の所領となり、明治まで水戸徳川家によって治められることになりました。
水戸城は同じ徳川家が城主を務める和歌山城や名古屋城と比べると、戦国時代の形式を色濃く残す連郭式の城です。北の那珂川(なかがわ)、南の千波湖(せんばこ)に挟まれた丘陵に建てられ、最大高低差50mもある3本の空堀が最大の特徴となっています。
石垣ではなく土塁の上に建てられたことから、日本最大級の土の城でもあります。
江戸幕府にはばかった天守は作られず、代わりに、外見は三層、中は五階建ての御三階櫓と称す大型の櫓があり、それが天守の代わりとなりました。
また、三の丸には藩校「弘道館」が第9代藩主徳川斉昭の時代に建てられました。
水戸城が藩主の格に比べて質素なのは、水戸城主は参勤交代を基本的に行わず江戸にずっと定石している大名だったためです。
つまり、水戸城は城主不在の城だったのです。
そのため、御殿など政務を行ったり城主の家族や家臣が暮す建物以外は物置などに使われていました。
- 明治以降の水戸城
- 明治になると廃藩置県が行われ、水戸城は廃城となりました。
水戸城の敷地は陸軍のものになり、駐屯地となりましたが、櫓をはじめとする建物は取り壊しを免れていました。
しかし、明治5年(1872年)に放火事件が起こり、残された建物の多くが焼失してしまいます。
水戸藩は幕末より改革派の天狗党と保守派の諸生党の争いがあり、たびたび現実的な戦闘が行われるなど一部不穏な空気が残っており、犯人捜しもずいぶんと行われましたが、結局首謀者が逮捕されることはありませんでした。
また、昭和20年(1945年)には空襲によって三階櫓も焼失してしまいます。
戦後、昭和27年(1952年) 弘道館が国の特別史跡に指定され、昭和39年(1964年)には、弘道館正庁、至善堂、正門および塀が国の重要文化財に指定されました。その後、土塁や空堀が茨城県の指定する史跡となっています。
平成になると水戸市によって大手門や二の丸角櫓などの整備計画がたちあがり、「一枚瓦城主」をはじめとする寄付活動も始まりました。
そのかいあって、令和2年(2020年)4月には、大手門が復元されています。
なお「薬医門」のみは江戸時代から現存する唯一の建築物の遺構で、公開もされています。
- まとめ
- 現在の水戸城は鉄筋コンクリートで復元された二の丸櫓、大手門、空堀などがあり、当時を偲ぶことができます。弘道館、偕楽園と共に水戸市の観光資源となっており、とくに梅の季節は偕楽園は全国から観光客が訪れます。