HISTORY
里見氏改易と共に廃城となった館山城
館山城は、千葉県館山市に江戸時代の初期まで千葉県館山市にあった平城です。新田義貞から分家した安房里見氏によって築かれ、里見氏の改易によって廃城にはりました。
一族と命運を共にした館山城の歴史を紐解いていきましょう。
- 館山城の築城
- 館山城は天正8年(1580年)に安房里見氏の第7代当主にあたる里見義頼によって建てられました。安房里見氏は、平安時代末期から鎌倉時代初期に活躍した武将、新田義重を祖とする新田氏の傍流であり、戦国時代に房総地方を支配しました。
里見義頼は長兄・義弘の養子になりましたが、領土の分割を巡って義弘の実子である里見義重と対立を深めていきます。里見義弘は、天正5年(1577年)に相模国一帯を治めていた後北条氏と和睦し、里見義頼は北条氏政の娘と妹を妻としました。里見義弘の死後、里見義頼と里見義重は彼の後継を巡って本格的な争いとなります。里見義頼は妻を通じて北条氏の後ろ盾を受け、里見義弘の実子である里見義重を破って領土全てを自分のものとしました。
館山城が建てられたのは里見義頼が房総半島を支配した後のことです。また、館山城が完成したのと同年、後北条氏に対抗するために武田信玄の嫡男武田勝頼と常陸国の佐竹義重が同盟を結びます。この同盟に里見義重も加わり、対後北条勢力ができあがったように見えましたが、天正10年(1582年)に織田信長が武田勝頼を滅ぼしたことにより、同盟は消滅しました。
なお、同年に織田信長は本能寺の変で嫡子織田信忠と共に明智光秀に討たれます。織田信長の死去により、旧武田領を巡る天正壬午の乱が勃発しました。この乱で里見義頼は北条氏に援軍を送るなど協力しますが、北条氏の一族であった自分の妻が亡くなると北条氏政と再び対立し、天下統一に向けて動き出し豊臣秀吉と連携を取ります。
卓越した外交手腕を見せた里見義頼のおかげで、里見氏は豊臣秀吉による小田原攻めの際に上総国と下総国を取り上げられるも、安房国だけ安堵されました。なお、このとき里見氏と豊臣秀吉を取りなしたのが、徳川家康と言われています。
- 館山城の廃城
- 里見氏は、慶長6年(1600年)に起こった関ヶ原の戦いは東軍に味方します。その結果、論功行賞によって常陸鹿島領3万石を安堵され、里見氏は約12万石の大名に昇格します。
しかし、里見頼義の嫡子里見忠重が藩主となった慶長18年(1618年)に職務怠慢を理由に幕府より改易されてしまいました。
里見氏はその後大名に復活することなく子孫はバラバラとなって各藩に家臣として仕えます。里見氏の改易によって館山藩は一時廃藩となり、館山城も破却されます。
その後、天明元年(1781年)に稲葉正明が館山藩の藩主となって藩は復活しましたが、館山城は再建されませんでした。
- 館山城の再建と南総里見八犬伝
- 館山城は、昭和57年(1982年)に模擬天守閣が再建されました。
内部は、南総里見八犬伝の資料館となっています。南総里見八犬伝は、文化11年(1814年)に滝沢馬琴によって執筆された伝奇小説です。「仁義礼智忠信孝悌」の玉を持つ八犬士が、安房里見氏の危機を救う完全懲悪のストーリーは、多くの江戸庶民を魅了し、今なお映画化やドラマ化がされている人気作です。ストーリーはフィクションですが、館山藩を設立した里見氏がモデルとなったということで、館山城内では南総里見八犬伝に関する合本や浮世絵などが展示されています。
再建された館山城の周りは里見氏に関する資料を集めた博物館や芝生広場、梅園や桜の小道などがある公園として整備されており、地元の方の憩いの場になっています。
- まとめ
- 館山城は戦国時代末期に建てられ、わずか40年ほどしか機能せずに廃城となりました。
館山藩は廃藩になってから100年以上も後に稲葉正明が新たに藩を設立します。しかし、一度廃城になった館山城が再建されることはありませんでした。しかし、里見氏はフィクションの中で蘇り、今でも多くの方に親しまれています。
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