大多喜城千葉県夷隅郡

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大多喜城DATA
別称 大滝城
築城 1521年
住所 千葉県夷隅郡大多喜町大多喜481
大多喜城への交通アクセス
いすみ鉄道・大多喜駅より徒歩20分。

HISTORY 徳川四天王が築いた大多喜城

大多喜城は、千葉県夷隅郡大多喜町にあった平城です。甲斐武田家から派生した真里谷武田氏の一族である真里谷信清が築き、徳川四天王の1人、本多忠勝が大改築を行って近代城郭になったと伝えられています。そんな大多喜城の歴史を紐解いていきましょう。

本多忠勝が城主になるまでの大多喜城
大多喜城は、大永元年(1521年)に真里谷信清が築いた「小田喜城」が前身とされています。真里谷信清は上総武田氏の一派、真里谷武田氏の当主であり、上総において千葉氏や原氏などと勢力争いをした人物です。 しかし、嫡男の真里谷朝信が城を継いだ後、里見氏の武将である正木時茂という人物に城を奪われ、小田喜城は正木氏のものになりました。その後、天正9年(1581年)に3代目城主であった正木憲時の時代、里見義頼との内紛によって正木憲時が殺害されてしまいます。城は里見氏のものになりますが、天正18年(1590年)、里見氏が惣無事令違反を理由に上総国を没収されると、同国は徳川家康に与えられました。
徳川家康は、小田喜城を、徳川四天王の1人、本多忠勝に与えます。彼は、城を大改築して近世城郭に生まれ変わらせ、多田喜城と名を改めました。なお、多田喜城は一から本田忠勝が築いたという説もありましたが、近年の発掘調査によって多田喜城の下から、大規模な城の遺構が発見されました。それが小田喜城の跡と考えられています。そのため、現在ではもともとあった小田喜城を本多忠勝が大改築して、大多喜城を築いた、という説が有力です。
江戸時代の大多喜城
江戸時代の大多喜城は大多喜藩の藩庁として幕末まで機能しました。 2代目藩主、本多忠朝の時代にフィリピン臨時総督であった「ロドリゴ・デ・ビベロ(ドン・ロドリゴ)」という人物が、マニラからアカプルコへ向けての航海中台風にあい、大多喜藩領の岩和田村に漂着しました。彼は、現地の人々に助けられた後で城主の本田忠朝の歓待を受け、徳川家康にも面会しました。この時の記録が「ドン・ロドリゴ日本見聞録」として現在も残されています。それによると、大多喜城は金銀の装飾が施された御殿や大量の武器を備えた保管庫があり、籠城に備えられるように田畑があったと記されています。この記述から、天下を取った徳川家康の重臣にふさわしい城であったことがわかります。
しかし、元和5年(1619年)藩主阿部正次が拠点を移したことにより大多喜藩は一時的に廃藩となります。その約60年後、寛文11年(1672年)に、阿部正春が1万6千石で入城した際、大多喜城は「一重の塀もないありさまで、門や櫓などもない」と記されるほど荒廃していました。幕府から大多喜城の修繕命令が出されますが、城が大規模に修繕されたという記録はなく、半ば荒廃したまま藩庁として使われてきたようです。
なお、天保13年(1842年)には天守が焼失し、天守の代わりに2層の「神殿」と称する建築が天保15年(1844年)8月に建てられたと記録が残っています。
明治以降の大多喜城
明治3年12月(1871年)に城は取り壊され、二ノ丸御殿で使用されていた薬医門は千葉県立大多喜高校に寄進されました。この門は、一度は解体されたうえで保存されていましたが、昭和48年(1973年)に復元され、現在も高校の敷地内に建っています。
また、同じ高校の敷地内には、本多忠勝が城を大改修した時代から残る「底知らずの井戸」も現存しています。当時は滑車を16個もつけて水をくみ上げたという記録が残っている大井戸です。直径17m、深さ20mあり、現在は柵越しから見学できます。 なお、薬医門も井戸も高校の敷地内にあるので、関係ない場所に立ち入らないなどのマナーを守って見学しましょう。
昭和41年(1966年)に本丸跡は千葉県の史跡に指定され、昭和50年(1975年)に城跡に天保6年(1835年)の図面を基にして天守が再建されます。内部は千葉県立総南博物館となっていました。 現在、博物館は改修のために長期休暇中であり、見学は復元された外観のみ見学可能です。
また、毎年秋には大多喜お城まつりが開催され、本多忠勝やドン・ロドリゴなどに扮装した方々による大名行列など、様々な催しが行われます。
まとめ
大多喜城は本多忠勝によって大改築され、建築当時は徳川家の重臣にふさわしい立派な城郭でした。 しかし、一時的に廃藩した後は城も荒廃し、ふたたび藩が復活した後も、往年の豪華さを取り戻すことはありませんでした。 当時の面影は、千葉県立大多喜高校にある薬医門や底知らずの井戸などにわずかに残るのみです。 それでも、毎年開かれる大多喜お城まつりでは、大名行列なども開催され、往年の賑わいを偲ぶことができるでしょう。 博物館の再開も待たれます。

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本多忠勝

大多喜城を藩庁とする、大多喜藩の歴史

大多喜藩一度は廃藩になった
大多喜藩は、大多喜城を藩庁として上総国夷隅郡に存在していた藩です。最初の藩主は徳川家康の重臣、本多忠勝でした。しかし、一度廃藩となり、その後わずか2万石の藩としてほそぼそと存続していきます。そんな大多
大多喜藩
大多喜藩DATA
藩庁 大多喜城
旧地域 上総国
石高 2万石
譜代・外様 譜代
主な藩主 本多家・阿部家・青山家・阿部家・稲垣家・松平家
推定人口 2万1000人(明治元年)

天正18年(1590年)の小田原征伐後、関東に入部した徳川家康は、徳川四天王の一人・本多忠勝に上総国に10万石を与えた。忠勝は当初は万喜城に入城したが、遅くとも天正19年(1591年)までに居城を大多喜城に移した。これが大多喜藩の起源である。

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