HISTORY
複数の別名を持つ「久留里城」
久留里城は、千葉県君津市久留里にあった平城です。中世に築城された後、江戸時代に近世城郭として整備され、明治時代まで久留里城の藩庁として機能しました。
「城の完成後、3日に一度、21回雨が降った」という不思議な伝説に基づき、「雨城」とも呼ばれています。この他、「霧降城」「浦田城」といった複数の別名を持っています。
このような久留里城の歴史を紐解いていきましょう。
- 古久留里城の時代
- 久留里城の原型は、上総武田氏の祖である武田信長という人物が康正元年(1455年)に上総国守護代に任じられたことをきっかけに、翌年に築城した山城です。なお、平将門の三男頼胤が久留里城の原型となる城を築いたという伝説も残っていますが、それを示す資料はありません。
武田信長は第12代甲斐武田氏当主武田信満の子息です。彼に始まる上総武田氏は戦国時代半ばまで上総の地を治めていましたが、戦国時代になると相次ぐ戦乱や内紛で弱体化したところ、里見氏に攻められて古久留里城ごと領地を占領されました。
- 戦国時代以降の久留里城
- 里見氏は鎌倉時代から続く御家人の家柄で、戦国時代に頭角を現わし房総半島一帯を治める安房里見氏が台頭しました。上総武田氏から久留里城ごと領地を奪った後、里見義堯という人物が、天文4年(1535年)に古久留里城がある山の麓、現在の位置に新しい城を作りました。この頃、関東支配を狙う小田原北条氏と安房里見氏は敵対しており、完成した久留里城は一時期小田原北条氏に奪われましたが、後に安房里見氏が奪還しています。
天正18年(1590年)豊臣秀吉によって小田原征伐が行われ、里見氏も参戦します。その際、当主であった里見義康が禁じられている私戦を起こし、罰として上総国の領土を取り上げられました。
その後、関東に移封された徳川家康が上総の地を大須賀忠政に3万石で与えます。
大須賀忠政は、城下町整備等を行ない久留里城周辺の近代化に努めました。
江戸時代を通して、久留里城は久留里藩の藩庁として機能します。
なお、久留里城付近は雨が多く「城の完成後は3日に一度、21回雨が降った」という伝説が残っています。
また、城周辺はよく霧がかかり、遠くから見ると雨が降っているように見えた。霧が城の姿を隠して敵の攻撃を受けにくかったといったといった伝説もあり、久留里城周辺は雨が多かったことがわかります。
久留里城の別名「雨城」や「霧降城」は城周辺地域の気候に由来するものです。
別名を持つ城は珍しくありませんが、気候に由来する別名は珍しいでしょう。
- 明治以降の久留里城
- 明治を迎えると、廃城令によって久留里城の主な建物はほぼ破棄されました。
城址は国有地となりましたが、昭和30年(1955年)に国有地を借り受ける形で城山公園として整備されます。
その後、昭和43年(1968年)に始まった明治百年事業の一環として久留里城復興計画が立ち上がり、昭和54年(1979年)にRC造の模擬天守閣が建築されました。
なお、模擬天守閣は浜松城模擬天守を模した2層3階ですが、実際の久留里城は2層2階であったと記録に残っています。
模擬天守閣は展望台として利用されており、千葉眺望百景にも登録されています。
- まとめ
- 久留里城は決して知名度は高くありませんが、関東支配をもくろむ北条氏に対抗する最前線の城であったなど、城本来の働きを十分に果たした城郭です。
現在残っている遺構は、堀切や切り通し、曲輪跡などで、これは里見氏が築いた古久留里城のものも含まれています。
なお、古久留里城遺構の周辺は豊富な水源があり、男井戸、女井戸、悲しい伝説が残るおたまが池などが整備されています。