HISTORY
今は石垣と堀が残るのみ「萩城跡」
萩城跡は、山口県の萩市にあった平城で、毛利氏の居城、長州藩の藩庁でした。
明治7年(1874年)に発布された廃城令により天守・二の丸・三の丸・櫓といった建物は皆壊され、現在は堀と石垣が残るのみです。
今回は、そんな萩城跡の歴史を紐解いていきましょう。
- 敗軍の将が建てた城
- 萩城は、慶長9年(1604年)毛利輝元によって築城されました。
毛利輝元は毛利氏14代目当主であり、豊臣政権のでは5大老の1人でした。また、慶長5年(1600年)に起こった関ヶ原の戦いでは西軍の総大将を務めています。
毛利輝元は当時「安芸」(現在の広島県)を中心に山陰・山陽・九州の一部までを領地に持つ日本で最も強大な力を持つ大名の1人でした。
しかし、徳川家康に西軍の総大将としての責任を問われ、領地を山陽・山陰8ヶ国から周防・長門2ヶ国の29万8千石に減封され、さらに当主の座を長男の毛利秀就に譲るように要求されます。
それをすべて飲むことで、毛利輝元は助命されます。そして、現在居城としている広島城から、どこに本拠地を移せばいいのか、幕府におうかがいを建てました。
そのときの候補地が萩・山口・三田尻(防府市)であり、幕府は「海に望み要害の地である萩がよい」と答えたため、萩に城を築くことに決めたといわれています。
なお、幕府は、外様大名の雄である毛利輝元を山陰の僻地に押し込みたい意図があったため、萩に城を築くように命じたという説がありますが、その一方で、毛利氏は萩城は他大名と戦う場所としては優れた「形勝之地」と認識していたという説もあり、毛利氏が無理矢理萩に押し込められたという訳ではなさそうです。
毛利輝元は慶長9年(1604年)に本丸御殿がまだ一部しかできていない状態で、早々に萩城に入城し、最後は萩で没しています。
- 在りし日の萩城
- 毛利輝元が築城した萩城は三方を海に囲まれており、日本海に張り出した指月山山頂に詰丸(要害)を造り、そして山麓に梯郭式に本丸・二の丸・三の丸を配置し、三重の堀で囲った平山城でした。
山頂に要害、山麓に館という配置は中世山城によく見られる形で、毛利輝元が背水の陣で築いた城という言い伝えが残っています。本丸跡地は現在の指月公園です。
天守は、5層5階の複合式望楼型で、高さは約21mで、姫路城(31m)、松本城(25m)に次ぐ高さです。
なお、天守は城下町から見えなかったので、藩主の力を誇示する役割は果たせなかったと考えられています。
天守事態は明治7年に解体されましたが、写真は数枚残残っています。なお、現在は勾配の緩やかな裾から上にいくに従って急勾配になっている様子の天守台が残っており、在りし日の姿を偲ぶことが可能です。
- 現在の萩城跡
- 現在、本丸跡の総面積約20万㎡の境内が、国定史跡指月公園として萩の名所となっています。
公園内には、天守跡、梨羽家茶室、旧福原家書院、万歳橋、東園のほか、3代藩主毛利敬親が藩主別邸・花江御殿に増築した茶室、「花江茶亭」が明治22年に移築されています。
また、二の丸南門近くにあった「旧厚狭毛利家萩屋敷長屋」が現存しており、昭和41年(1966年)に国の重要文化財に指定され、資料館として機能しています。
指月山の山頂に設けられた要害跡には、土塀の一部や水溜が復元修理されており、石垣とする石を切り出した石切場も残っています。
指月公園は現在萩屈指の桜の名所で、600本のソメイヨシノが植えられていますが、その中で1本だけガクが緑色の純白の桜「ミドリヨシノ」があります。
ミドリヨシノは日本では萩市にのみ2本だけ現存する稀少な種です。
指月公園に足を運んだ際は、ぜひ自分の目で確かめて見てください。
毎年、ソメイヨシノよりも少し早めに開花します。
萩城跡と関連する人物記を読む
- 毛利輝元中国地方のプリンス
- 戦国時代、中国地方の安芸国(現在の広島県)から出て大勢力にまで成長した大名がいました、毛利元就です。その毛利元就の孫が毛利輝元でした。輝元は、東海、近畿地方で勃興した織田信長と対立、その後に台頭した豊