HISTORY
現在は絶景スポットとして知られる米子城
米子城は天正19(1591)年に築城が始まり、慶長6(1601)年に完成し、短期間存在した米子藩の居城となった城です。かつては、山陰一の名城と名高く、現在は米子市を一望できる絶景スポットとして知られています。そんな米子城の歴史を紐解いていきましょう。
- 米子城の築城まで
- 米子城は、戦国時代に飯山の上に築かれていた砦を前進とした城で、江戸時代初期に湊山を中心に近世城郭が改めて築かれました。
戦国期の米子城は、飯山の頂上に、南北約85メートル、東西約35メートルの郭を構えており、東と北に野面積みで高さ2メートル前後の石垣を各2段設設けていたことがわかっています。また、門が3か所、建物もあったことがわかっていますが、現在は僅かに石垣の痕跡が残るのみです。
江戸初期に新たに築かれた米子城は湊山の山頂に本丸、北側の中腹に二ノ丸を築き、その下に三ノ丸を置く構造でした。そして、飯山の上にあった砦は出丸となったと記録に残っています。
大天守と呼ばれる四重の天守と四重櫓を持ち、30棟の櫓と20棟の門が建てられており、築城当時は山陰一の名城と呼ばれました。
なお、米子城は吉川広家と中村一忠はという2人の武将によって築かれましたが、吉川広家は慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦で主君の毛利輝元が西軍の大将になったことが原因で、米子から岩国に移封されてしまいます。
その後を豊臣秀吉の三中老であった中村一氏の嫡子、中村一忠に任された形です。
なお、中村一氏も豊臣秀吉の忠臣でしたが、関ヶ原の戦いの直前に駿府城下内膳屋敷で徳川家康と会談し、東軍徳川方に加わりました。この功績によって、中村一忠に米子の地が与えられたといわれています。中村一忠このときまだ11才の幼少でありましたが、家臣の助けを経て米子城だけでなく、米子の城下町の整備にも力を入れ、江戸時代に商都として栄えた米子市の基礎を造りました。
- 中村一忠の急死と米子城のその後
- 慶長14年(1609年)中村一忠は急死しましたが、後継がいなかったために家系断絶のため、中村家は改易されました。その後、加藤貞泰が伯耆の内で2郡6万石を配して米子藩を任されましたが、元和3年(1617年)に大洲藩へ移封になったのをきっかけに米子藩は廃藩になったのです。
その後、米子は鳥取藩の池田光政の所領となり、米子は家老の池田由成が城代として駐在しました。なお、米子城が一時期鳥取藩の藩庁になる意見もありましたが、結局は実現せず、米子城は明治維新まで家老の荒尾但馬家が城代を勤め、廃城になりました。
- 明治以降の米子城
- 明治維新を迎えると、米子城は明治12年(1879年)当時の金30円で古物商山本新助に売り払われ、めぼしい建物はすべて取り壊されて石垣のみになります。
その後、昭和26年(1951年)当時は錦公園と呼ばれていた米子公園に湊山を合わせて現在の湊山公園となりました。
昭和63年(1988年)~平成元年(1989年)かけて改めて米子城の発掘調査がおこなわれ、平成3年(1991年)に船入り石垣の遺構が発見されます。
平成18年(2006年)国の史跡に指定され、平成29年(2017年)には続日本100名城に選定されました。
現在の米子城は石垣以外めぼしい建物は何も残っていませんが、米子市を一望できる絶景スポットとして隠れた名所となっています。
- まとめ
- 米子城は山陰随一の名城と言われながら、中村家断絶の後は藩庁になることもなく、支城の一つとして明治維新を迎えた後で、石垣以外は取り壊されました。
現在も建物の復元はおこなわれていませんが、城址は整備され、絶景スポットとして隠れた名所となっています。
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