HISTORY
日本三大平城の1つに数えられる津山城
津山城は、岡山県津山市 に築かれた平城です。日本三大平山城の 1つに数えられ、築城当時は外郭を含めれば、広島城の76棟、姫路城61棟をしのぐ77棟の櫓 があり、明治時代に撮影された写真にも、その様子が写っています。現在は、城跡が「日本桜の名所100選」に選出され、桜の季節には多くの観光客が訪れます。
そんな津山城の歴史を紐解いていきましょう。
- 森蘭丸の弟が建てた城
- 津山城は、本能寺の変で織田信長と共に討ち死にした武将、森蘭丸(森成利)の弟、森忠政によって、現在の岡山県津山市に築かれた平城です。森忠政は、織田信長の家臣・森可成の六男 として誕生しました。兄である森蘭丸同様、織田信長に小姓として仕えますが、信長の前で同僚とケンカ騒ぎを起こして、「まだ小姓として仕えるのは早い」と判断されて親元に返されます。結果的にこれ森忠政の命を救いました。本能寺の変では、森蘭丸以外に彼の2人の弟も信長と運命を共にしています。
生き残った森忠政は、家督を継いだ兄長可が「小牧・長久手の戦い」で戦死すると、森蘭丸含む兄弟全員が亡くなっていたことから、末子の彼が森家の家督を継ぎました。森忠政ははじめは豊臣秀吉に仕えますが、彼が亡くなると徳川家康に接近し関ヶ原の戦いでは東軍に味方しています。森忠政は、関ヶ原の戦いが起こった慶長6年(1600年)に信濃の川中島を拝領して藩主となっていましたが、慶長8年(1603年)、小早川秀秋の死によって小早川家が無嗣改易されると 18万6000石で津山藩に加増移封され、津山藩藩主になりました。
津山藩に入った森忠政は、津山城築城に取り掛かります。築城の土地はこれまで「鶴山」と呼ばれていましたが、森忠政が「津山」と改名しました。
津山城は自然の地形を生かして築かれた平山城であり、鶴山の山頂に本丸が設けられ、城郭は数重の堀と石垣によって堅固に守られていました。5層の天守を含む多くの建物があり、その威容から「西国随一の名城」とも称されました。
また、城内には重臣の屋敷や武家屋敷が配置され、城下町も整備されます。なお、津山城の天守閣は小倉城を模して作られたといわれています。津山城築城の際、建築に関わる職人を小倉城に派遣して城の形を観察させます。その際、城主である細川忠興は事情を知ると職人たちを城に招き入れ、存分に検分させたうえ、手土産まで持たせた返したという逸話が伝わっています。
それに関係があるか不明ですが、津山城天守最上階には小倉藩細川家 から贈られた西洋風の鐘が明治期まで設置されていました。
このほか、幕府が津山城の天守閣が5層であると伝わり、調査のために使者が派遣されたという逸話も伝わっています。森忠政はその知らせを聞いて家臣の「伴唯利」という人物を一晩のうちに江戸から津山に戻らせ、天守閣4層目の屋根瓦を破壊し、5層の天守閣を4層に見せかけました。なお、伴唯利という人物は仙人とも忍びとも伝わっている謎の多い人物です。
このように逸話の多い津山城ですが、完成までに13年の歳月をかけ、77棟の櫓を含む80以上の建物が経っていました。文化6年(1809年)に火災で本丸御殿が消失しますが、それ以外に大きな破損もなく明治を迎えました。
- 明治以降の津山城
- 明治になると廃城令によって、津山城の建物はほとんどが取り壊されます。明治半ばになると城の石垣が崩れたことをきっかけに城の保存運動が市民の間から上がりました。その結果、明治33年(1900年)に津山城址は公園として整備され、多数の桜も植えられました。
昭和38年(1963年)に国の史跡に指定され、平成14年(2002年)に築城400年記念行事の一環として、備中櫓復元工事に着手。平成17年 (2005年)に完成しました。
- まとめ
- 現在の津山城は模擬天守と復元された櫓が残る史跡として、歴史ファンに親しまれています。往年の建物は残されていませんが、石垣の形や配置から当時の様子をうかがい知ることができるでしょう。通年ライトアップが行われており、桜の季節や紅葉の季節は夜間も大勢の観光客でにぎわいます。