備中松山城岡山県高梁市

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備中松山城DATA
天守 現存天守
別称 高梁城
築城 1240年
住所 岡山県高梁市内山下1
電話番号 0866-22-1487
開館時間 9:00〜17:30(入館は17:00まで)
休館日 12月29日〜1月3日(本丸)
登閣料 大人500円/小・中学生200円
備中松山城への交通アクセス
JR西日本備中高梁駅より乗合タクシー下車徒歩20分。

HISTORY 日本三大山城の1つ「備中松山城」

備中松山城は、岡山県高梁市内山下に位置する山城です。重要文化財に指定されており、天守が現存する現存12天守のうち「唯一の山城」です。臥牛山山頂(標高487m)から南稜線にかけて遺構が残っており、雲海に浮かぶ様が幻想的だと国内だけでなく国外まででも有名です。そんな備中松山城の歴史を紐解いていきましょう。

鎌倉時代より守りの要所だった臥牛山
現在、備中松山城がある臥牛山には仁治元年(1240年)にはじめて砦が作られました。そこから元弘年間(1331年頃)まで100年ほどかけて、臥牛山全体に砦が築かれます。
戦国時代、この地は三村元親が備中松山を治めていましたが、そのころには砦は大松山・小松山を範囲とする一大城塞となりました。
この砦は、三村元親が宇喜多直家を討つさいに出陣したとき、庄高資・庄勝資親子にここを占拠されるという事態が起こりますが、元亀2年(1571年)に砦を奪還します。
その後も、三村元親が毛利氏から織田信長に寝返ったことで「備中兵乱」という三村氏と毛利氏の争いが生じます。この争いの最中、砦は毛利軍の小早川隆景により落され、三村元親は自害しました。
江戸時代の備中松山城
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで毛利氏は西軍についたため、徳川家康によって毛利氏は備中松山を追われ、その後お城番として小堀正次・政一の2名を置きます。
このころ、砦は拡張され現在の備中松山城の形に近くなりますが、臥牛山の頂上は麓まで約1時間以上かけて登らなければならないため、麓に御根小屋が作られました。
普段の政務はそこで行われ、山頂の城はいざというときのための詰めの城と使われます。つまり、備中松山城は普段はほぼ使われない城となりました。
その後、備中松山城は天和元年(1681年)〜天和3年(1683年)にかけて天守建造などが行われ、ほぼ現在の姿となります。
そして、明治時代までいざというときのための詰めの城として、ほぼ使われないまま明治維新を迎えました。
明治時代以降の備中松山城
明治時代になると、臥牛山の麓にある御根小屋は取り壊されましたが、備中松山城は商家に冬至のお金で5円(現在の7万円前後)で売却されます。
しかし、特に何をされることなく、荒れるに任されていました。しかし、昭和初期に小学校の教諭であった「信野友春」という人物が荒れ果てた備中松山城を調査し、『備中松山城及其城下』という本を記します。これにより、備中松山城復刻の声が高まり高梁町で予算が組まれました。
その後、昭和16年(1941年)に天守、二重櫓、三の平櫓東土塀の3棟が旧国宝に指定されました。昭和25年(1950年)、文化財保護法の施行により、重要文化財に指定し直され、昭和31年(1956年)に城跡が国により史跡に指定されたことで、高梁町が管理団体となります。平成6年(1994年)からは本丸の復元整備が行われ、本丸南御門、東御門、腕木御門、路地門、五の平櫓、六の平櫓、土塀などが復元されました。
平成18年(2006年)には日本百名城の1つに指定されます。
現在の備中松山城
現在の備中松山城は、兵庫県の竹田城と同じく雲海に浮かぶ城として人気があり、年間を通してたくさんの観光客が訪れます。
平成30年(2018年)には、迷い猫として城に居着いた猫が『猫城主』に任命され、観光大使として活躍しています。
その一方で、石垣の中に入り込んだ木の根が成長し、石垣崩落の危険性や害獣による被害が相次いで報告され、城を保存するための対策が急がれています。
雲海が発生するのは、9月下旬から4月上旬まで、もしくは10月から12月上旬までの早がベストシーズンです。
冬は積雪があるため、天気予報をよく確認して出かけることが必要です。

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小堀正次

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備中松山藩
備中松山藩DATA
藩庁 備中松山城
旧地域 備前国
石高 5万石
譜代・外様 譜代
主な藩主 三村氏、池田氏、水谷氏、板倉氏
推定人口 2万6000人(明治元年)

毛利家の所領であった松山へは、小堀正次や池田長幸、水谷勝隆、安藤重博、石川総慶、板倉勝澄などが入封。

雲海に浮かぶ「天空の城」備中松山城

岡山県高梁市にある備中松山城は現存12天守のうち唯一の山城です。雲海のなかに城が浮かぶさまは「天空の城」と呼ばれ、多くの人々を魅了しています。また、山城で天守が残っているのは全国でも備中松山城だけです。

備中松山城
備中松山城とその歴史
備中松山城は標高約480mの臥牛山にある山城です。臥牛山は大松山、天神の丸、小松山、前山の4つの峰からなり、備中松山城は標高約430mの小松山の山頂にあります。鎌倉時代に地頭の秋庭重信が大松山に砦を作ったのが始まりで、時代とともに臥牛山全域に拡大しました。
戦国時代には毛利氏の東方進出の拠点となり、毛利輝元が城主になったこともあります。関ヶ原の戦いののちは備中国奉行として小堀正次が備中松山城に入り、その跡を継いだ息子で作庭家の小堀遠州が陣屋や城郭の改修に着手します。
その後城主は移り変わり、寛永19年(1642年)に水谷勝隆が松山藩5万石の藩主に就任。勝隆の死後は家督を継いだ息子の水谷勝宗が、天和元年(1681年)から天和3年(1683年)まで大修築を実施します。この時に天守とともに二重櫓や大手門、三平櫓東土塀が作られました。
なお、水谷氏は跡継ぎがいなくなったことで3代で断絶。続いて城に入ったのは浅野氏で、なんとその際水野氏から城を受け取ったのは忠臣蔵で知られる大石内蔵助でした。
備中松山城は幕末の騒乱も無血開城により耐え抜きますが、その後廃城令で藩主の居宅などが破壊されます。しかし、山の上にあった天守や櫓は壊されず放置されました。荒れ果てた山城は昭和14年(1939年)の大改修を経て現在の形に復活しています。
備中松山城へのアクセス方法
備中松山城は山の中にあり、最寄りの備中高梁駅から駐車場のあるふいご峠までタクシーで約15分。そこから700mの道のりを徒歩約20分で登ると天守に到着します。備中高梁駅からは歩いて約90分です。
備中松山城の見どころ①雲海に浮かぶ山城
「天空の城」と呼ばれる備中松山城は、兵庫県朝来市の竹田城、福井県大野市の越前大野城と並んで「日本三大天空の城」として知られています。城が雲海に浮かぶ幻想的な姿を見たい場合は、別峰にある「雲海展望台」がおすすめです。備中高梁駅からはタクシーで約20分、車道からすぐのところにある展望台です。
雲海が発生する時期は9月下旬から4月上旬にかけてで、特に10月下旬から12月上旬は出現率が高まります。時間帯は明け方から午前8時頃まで。前日と翌早朝の気温差が大きく、晴れた日が出やすいとされています。「雲海出現NAVI」など雲海出現の予測サイトや備中松山城の公式サイトなどで出現する可能性を確認してから訪れるのがおすすめです。
なお、雲海を見る際は防寒対策をお忘れなく。夜明け前から雲海を待つ場合は懐中電灯を持参しましょう。
雲海を見学した後は備中松山城までトレッキングでのんびり移動するのがおすすめ。約30分の道のりでは天神の丸や、秋庭重信によって築かれた大松山城跡などが見学できます。
備中松山城の見どころ②重要文化財の天守
備中松山城の天守は木造本瓦葺きの2層2階です。高さは約11mで、現存12天守のなかでは最も低いものとなっています。
何度も戦の舞台になっていることから、1階には戦に備えて囲炉裏が置かれており、城主の食事の準備や暖房として使われたそうです。囲炉裏のある天守は非常に珍しいですね。さらに籠城時に城主が住む「装束の間」もあり、忍者が侵入できないよう床下に石を入れて隙間をなくしています。
2階には御社壇があり、城の守護神として三振の宝剣や天照皇大神、羽黒大権現をはじめとした10柱の神々が祀られています。
備中松山城の見どころ1 備中松山城の見どころ2 備中松山城の見どころ3
備中松山城の見どころ③重要文化財の土塀
備中松山城の「三の平櫓東土塀」は、土塀としては珍しく重要文化財に指定されています。大手門から入って左に曲がると正面に見えるもので、練った土の塊を重ね、外側に漆喰を塗って仕上げています。土塀には鉄砲を撃つための丸い筒狭間と弓を射るための四角い矢狭間が交互に並んでいます。
途中から復元土塀になりますが、現存と復元の境界には段差が設けてあるので確認してみましょう。
備中松山城の見どころ4 備中松山城の見どころ5 備中松山城の見どころ6
備中松山城の見どころ④巨石を活かした石垣
山城の大きな見どころといえば石垣!備中松山城の大手門跡の右側の石垣は天然の岩盤の上に石垣を築いており、なんと10m超の高さを誇ります。大河ドラマ『真田丸』のオープニング映像でも使われており、迫力満点です。
臥牛山全体は硬い花崗岩質で大きな自然石が多くあり、備中松山城はそうした自然環境を生かして築城されています。天守や二重櫓の基礎も自然の岩盤を削りだした上に石垣や建物が築かれており、見どころの一つです。
三の丸に進むと段々に築かれた石垣があり、山城らしさを感じられます。二の丸に向かう途中には毛利氏が築かせたと推定されている野面積の石垣も残されていますよ。
備中松山城の見どころ7 備中松山城の見どころ8 備中松山城の見どころ9
おすすめ撮影スポット
遠方からの俯瞰は雲海展望台から。近くからの撮影は二の丸広場からがおすすめです。天守を含む本丸がきれいに撮影できますよ。
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栗本 奈央子
執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。
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