HISTORY
日本三大山城の1つ「備中松山城」
備中松山城は、岡山県高梁市内山下に位置する山城です。重要文化財に指定されており、天守が現存する現存12天守のうち「唯一の山城」です。臥牛山山頂(標高487m)から南稜線にかけて遺構が残っており、雲海に浮かぶ様が幻想的だと国内だけでなく国外まででも有名です。そんな備中松山城の歴史を紐解いていきましょう。
- 鎌倉時代より守りの要所だった臥牛山
- 現在、備中松山城がある臥牛山には仁治元年(1240年)にはじめて砦が作られました。そこから元弘年間(1331年頃)まで100年ほどかけて、臥牛山全体に砦が築かれます。
戦国時代、この地は三村元親が備中松山を治めていましたが、そのころには砦は大松山・小松山を範囲とする一大城塞となりました。
この砦は、三村元親が宇喜多直家を討つさいに出陣したとき、庄高資・庄勝資親子にここを占拠されるという事態が起こりますが、元亀2年(1571年)に砦を奪還します。
その後も、三村元親が毛利氏から織田信長に寝返ったことで「備中兵乱」という三村氏と毛利氏の争いが生じます。この争いの最中、砦は毛利軍の小早川隆景により落され、三村元親は自害しました。
- 江戸時代の備中松山城
- 慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで毛利氏は西軍についたため、徳川家康によって毛利氏は備中松山を追われ、その後お城番として小堀正次・政一の2名を置きます。
このころ、砦は拡張され現在の備中松山城の形に近くなりますが、臥牛山の頂上は麓まで約1時間以上かけて登らなければならないため、麓に御根小屋が作られました。
普段の政務はそこで行われ、山頂の城はいざというときのための詰めの城と使われます。つまり、備中松山城は普段はほぼ使われない城となりました。
その後、備中松山城は天和元年(1681年)〜天和3年(1683年)にかけて天守建造などが行われ、ほぼ現在の姿となります。
そして、明治時代までいざというときのための詰めの城として、ほぼ使われないまま明治維新を迎えました。
- 明治時代以降の備中松山城
- 明治時代になると、臥牛山の麓にある御根小屋は取り壊されましたが、備中松山城は商家に冬至のお金で5円(現在の7万円前後)で売却されます。
しかし、特に何をされることなく、荒れるに任されていました。しかし、昭和初期に小学校の教諭であった「信野友春」という人物が荒れ果てた備中松山城を調査し、『備中松山城及其城下』という本を記します。これにより、備中松山城復刻の声が高まり高梁町で予算が組まれました。
その後、昭和16年(1941年)に天守、二重櫓、三の平櫓東土塀の3棟が旧国宝に指定されました。昭和25年(1950年)、文化財保護法の施行により、重要文化財に指定し直され、昭和31年(1956年)に城跡が国により史跡に指定されたことで、高梁町が管理団体となります。平成6年(1994年)からは本丸の復元整備が行われ、本丸南御門、東御門、腕木御門、路地門、五の平櫓、六の平櫓、土塀などが復元されました。
平成18年(2006年)には日本百名城の1つに指定されます。
- 現在の備中松山城
- 現在の備中松山城は、兵庫県の竹田城と同じく雲海に浮かぶ城として人気があり、年間を通してたくさんの観光客が訪れます。
平成30年(2018年)には、迷い猫として城に居着いた猫が『猫城主』に任命され、観光大使として活躍しています。
その一方で、石垣の中に入り込んだ木の根が成長し、石垣崩落の危険性や害獣による被害が相次いで報告され、城を保存するための対策が急がれています。
雲海が発生するのは、9月下旬から4月上旬まで、もしくは10月から12月上旬までの早がベストシーズンです。
冬は積雪があるため、天気予報をよく確認して出かけることが必要です。
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