福山城広島県福山市

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福山城DATA
別称 久松城、葦陽城
築城 1622年
住所 広島県福山市丸之内一丁目8
電話番号 084-922-2117
開館時間 9:00〜17:00
休館日 月曜日(祝日の場合は翌日)、年末(12月28日〜12月31日)
福山城への交通アクセス
JR「福山」駅、徒歩5分

HISTORY 大規模な近世城郭としては最後の城「福山城」

福山城は、広島県福山市丸之内に建てられていた平城です。慶長20年(1615年)、一国一城令が発布された後に築城された城であり、大規模な近世城郭として新規築城された最後の城でもあります。 そんな福山城の歴史を紐解いてみましょう。

福山城築城まで
福山城が建築された福山は、城が築城されるまで「杉原保」という荘園があり、安土桃山時代より「野上村」という村がありました。 城から少し離れた場所に、備後国の政庁である「神辺城」という城がありましたが、福山城が建てられていた場所には、田畑や湿地帯があるだけだったのです。
福山を含む備後の地は、もともと豊臣秀吉、徳川家康の2人に使えた福島政則の所領でした。 しかし、福島正則が「武家諸法度違反」で改易されると、福山の地は毛利氏をはじめとする西国の有力大名の監視の意味を込めて、徳川家康の従兄弟である水野勝成に与えられます。
福山城の築城から江戸時代末期まで
福山城は、5重の天守・7基の3重櫓・長大な多門櫓を持つ巨城でした。10万石の大名の居城としてはかなり立派です。 福山城は、前述したように慶長20年(1615年)、一国一城令が発布された後に築城された城です。 水野勝成の居城には、「神辺城」も候補に挙がりましたが、やや内陸に寄りすぎていることと、過去に何度か落城したことから、新城築城が決定しました。
なお、現在の福山城はJR福山駅のすぐ裏手にありますが、築城当時はもっと海が迫っており、城周辺は湿地帯と田畑が入り交じっていたと伝えられています。 そのため、水野勝成は、築城と同時に周囲の干拓にも手を出します。 低湿地帯であった福山の地に城をつくるのは、当時の土木技術では困難を極めました。 特に、芦田川の流れを城の北側にある吉津川に分流する工事は水害もあって、完成まで年単位の年月がかかりました。
なお、福山城の建築材は、神辺城だけでなく、伏見城のものも活用されています。 記録によると、伏見櫓や月見櫓、御殿(伏見御殿)、御風呂屋(御湯殿)、鉄御門、追手御門、多聞櫓が伏見城からの移築と伝わっています。 慶長20年に建築をはじめた福山城は、元和8年(1622年)に3年近い年月をかけて要約完成しました。 その際、幕府公金から金12,600両・銀380貫が貸与されるなど何もかも異例の扱いでした。 このことからも、福山城は鎮西の要所として重要視されていたことが分かります。
江戸時代を通して、福山城は備後福山藩の藩庁として機能しました。 幕末、第二次長州征伐参加のための準備中に櫛形櫓で火薬が爆発する事故が起き、隣接する鎗櫓、鉄砲櫓、番所が武器ごとすべて焼失するという大事故があったほか、第二次長州征伐から3年後の慶応4年(1868年)に改めて新政府から攻撃を受けます。 しかし、福山城はこの攻撃を耐え抜き、明治維新を迎えました。
明治以降の福山城
明治維新後の福山城は、明治6年(1873年)に廃城令を受け、伏見櫓、筋鉄門、御湯殿、鐘櫓、涼櫓、本丸などを除き、ほとんどの建物が解体して売却されました。 内堀や外堀も売却されて埋め立てられ、福山駅をはじめとして、学校、工場、宅地などに転用されていきます。 本丸は保存を願う人々の手によって、明治8年(1875年)に「福山公園」として整備されますが、本丸の老朽化が進み、その補修費用を捻出できないことから、明治17年(1884年)に広島県へ変換されます。
しかし、広島県も積極的な保存活動をしなかったため、天守閣はもちろんのこと「公園」そのものも荒れ果ててしまいました。 この惨状に見かねた有志があらためて本丸保存のための活動をはじめたり、その当時は「福山町」であった福山市が公園の譲渡を県に申請したりして、明治29年(1896年)に認められます。
明治30年(1897年)、今までの活動のかいあって、福山市は天守、伏見櫓、筋鉄御門、御湯殿の修理をおこないます。 これにより、福山城の文化的価値が再評価されるようになって、昭和に入ると天守、伏見櫓、筋鉄御門、御湯殿が国宝に指定されました。 福山公園も整備され、春には有志が植えた桜が咲き乱れる桜の名所となりました。
しかし、太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)の福山大空襲で天守、御湯殿、涼櫓など現存していた文化財はおおよそ焼失してしまいます。 戦後、福山城の跡地は20年以上そのままになっており、三の丸跡地は福山市街地になっていきました。 そして、昭和41年(1966年)に、要約福山市の市制50周年記念事業の一環として天守、月見櫓、御湯殿が復興されます。
その後、昭和63年(1988年)頃から、三の丸西側はふくやま美術館や広島県立歴史博物館が建てられて、「文化ゾーン」として整備はされてきましたが、外堀、内堀など「福山城」の遺構は復元されることなく破棄されている部分が大半です。
2006年(平成18年)福山城は日本100名城に選定されましたが、福山城がJR福山駅に「隣接」といっていいほどの近場にあることから、遺構をすべて守りながら市を発展させていくのはなかなか難しいようです。 現在、福山城の内部は博物館になっており、備後福山藩の歴史を知る展示物や現存する文化財などが展示されています。
まとめ
福山城はJR福山駅のほぼ真裏に位置し、とてもいきやすい城です。 近くに美術館や博物館もあり、備後の歴史、文化を知るには絶好の場所です。

福山城を藩庁とする、福山藩の歴史

備後福山藩有力な譜代大名家が治める
備後福山藩は、江戸時代は「備後国」と呼ばれた広島県東部・南部、備中国南西部周辺一帯を治めた藩です。10万石(阿部家7代藩主阿部正弘からは11万石)と、石高としては「大大名」とは言えませんが、初代水野氏
備後福山藩
福山藩DATA
藩庁 福山城
旧地域 備後国
石高 11万石
譜代・外様 譜代
主な藩主 水野家、松平家、阿部家
推定人口 18万5000人(明治元年)
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