HISTORY
武田氏滅亡後に築城された甲府城
甲府城は、山梨県甲府市にあった平城です。甲府は織田信長によって滅亡されるまで甲斐武田氏の所領でした。武田氏の所領を一気に広げた武田晴信(信玄)は、要害山城を含む躑躅ヶ崎館 を本拠地としており、自ら築城することはありませんでした。
甲府城は豊臣秀吉の命によって築城され、徳川政権下でも西側の外様大名達を監視するための拠点として幕府の要所となりました。そんな甲府城の歴史を紐解いていきましょう。
- 武田氏が支配していた甲府
- 江戸時代以前、甲府の支配者として広く知られているのは甲斐武田氏です。甲斐武田氏は武田信玄の名で知られている武田晴信とその父、武田信虎の時代に甲府を統一して大きく領土を拡大します。武田氏の居城は 要害山城を含む躑躅ヶ崎館であり、甲府の城下町も館中心に作られました。
武田晴信は他の戦国大名のように山城を自分で築城せず、戦で奪い取った他の大名が築城した城を自分好みに改築して使用していました。
「人は城、人は石垣、人は堀 情けは味方、仇は敵なり」 と信玄が述べたという逸話が有名であり、それに関連付けて「武田信玄は城を築かなかった」といった意見もあります。しかし、武田晴信は石垣を持たない「中世城郭」はいくつか築いていた記録は残っています。私たちが「城」と聞いた時にイメージする「近世城郭」は織田信長が築いた安土城が始まりです。武田晴信が甲斐の支配者として君臨していた時代、城のスタンダードは石垣を持たない中世城郭でした。
そのため、武田晴信は人を大切にして城を作らなかったといった意見が生まれたとも考えられます。
なお、武田晴信の嫡子武田勝頼は韮崎に新たな近世城郭「新府城」 を建築しようとしていました。
しかし、長篠の戦いで織田信長に敗北、さらに織田軍勢に甲斐まで攻め込まれた勝頼は築城中の城に火を放って廃城にした後、最終的に武田氏は織田氏によって滅ぼされました。
- 甲府城の築城と江戸時代
- 武田氏が滅んだ後、甲府の地は織田家臣の河尻秀隆に与えられました。しかし、本能寺の変で織田信長が嫡男織田信忠と共に打たれると、甲府の地を後北条・徳川・上杉、さらに甲府周辺に領地を持つ真田氏をはじめとする国人が加わって奪い合う「天正壬午の乱」が勃発します。最終的に徳川氏と北条氏の和睦によって乱は集結しますが、北条氏弱体化のきっかけになりました。
「天正壬午の乱」は、2016年に放映された大河ドラマ「真田丸」の中でも描かれています。
天正壬午の乱の後、甲府の地は豊臣家の直轄地になり、豊臣秀次の弟に当たる豊臣秀勝に与えられました。甲府城はこの時代に築かれましたが、豊臣秀吉の命で築城された説が有力ですが、徳川家康が
築城種であったという説もあります。
しかし、現在も残っている甲府城の石垣は豊臣大名時代の築造 の特徴が色濃くあるため、豊臣秀吉の命によって作られた説が有力です。
甲府城は豊臣秀勝・加藤光泰・浅田長政と城主を変えながら築城されました。
江戸時代に入ると、甲府城は西側の外様大名を見張るための重要な要地となり親藩の「甲府藩」が誕生し、初代藩主は徳川家康の九男が勤めました。
甲府の地はその後幕府の直轄地になったり、江戸時代半ばの享保12年(1727年)に大火によって建物の大部分が焼失したりするなどしました。さらに幕末、江戸幕府の進退をかけた甲州勝沼の舞台となり、明治新政府軍の司令官板垣退助と新撰組近藤勇率いる旧幕府軍が激突しました。
この戦いは、新撰組の終焉、さらい近藤勇が捕えられた戦いとして何度もドラマ化や映画化が行われています。
結局、甲府城は明治政府のものになり、この戦いが一つのきっかけになって江戸城は無血開城の道を選びました。
- 江戸時代以降の甲府城
- 明治時代になると甲府城は廃城となり、建物のほとんどが取り壊されたり移築されたりして姿を消しました。現在は毘沙門堂のみが現存しています。
1990年代~2000年代にかけて櫓や門の一部が復元された。
なお、甲府城は長年「天守は存在しない」という意見が主流であったが、発掘調査等によって豊臣政権の時代に一時期ではあるが天守が存在しているといった意見も出てきた。
また、現存している松本城天守のような城郭が存在していたという意見もあり、2010年代には天守に関する資料を懸賞金付きで集めたり、天守を復興しようという動きも盛んであった。
しかし、2024年10月現在、天守復興の具体的な計画は建てられていない。
実現すれば新しい甲府の名名所が生まれる可能性もあるります。
- まとめ
- 甲府城は豊臣政権下で築城され、徳川政権下でも支配の要所として重要視されました。また、現在城跡は歴史公園として整備されており、無料で石垣などの遺構や復元された門や櫓を見学できます。