HISTORY
山之内一豊が築いた掛川城
掛川城は、静岡県掛川市掛川にある日本の平城です。掛川は東海道の要所であることから、戦国時代からたびたび戦の舞台になりました。
特に、徳川と武田の激しいぶつかり合いは有名です。
そんな掛川の地に建っていた掛川城の歴史を紐解いていきましょう。
- 江戸時代以前の掛川城
- 掛川城は、室町時代中期の文明年間に今川義元の祖父に今川義忠が、重臣の朝比奈泰煕に命じて築城させた城が、掛川城の前身と伝えられています。
築城後、この城は朝比奈氏が城代を勤めてきました。
永禄11年(1568年)に朝比奈氏の主君に当たる今川氏真が、武田氏・徳川氏の両家から攻められて朝比奈氏のもとに逃げ込んできます。
これにより、城は徳川軍によって包囲されました。
朝比奈氏は善戦し、徳川軍は城を落とせずに苦労します。
結果的に朝比奈氏は主君今川氏真の助命を条件に、城を開城しました。
これにより、掛川城の前身は徳川家康のものになり、今川氏真は小田原の北条氏を頼って落ちのびていきます。
掛川城の前身は、家康の重臣・石川家成・康通親子が入り、城代を勤めます。
天正18年(1590年)徳川家康が豊臣秀吉の命令で江戸に移されると、掛川城は馬ぞろえや一筆啓上のエピソードで知られる山内一豊に与えられます。
山内一豊は、掛川城の大改築を実施し、天守や石垣などを増築して近世城郭へと生まれ変わらせました。
現在、復元されている掛川城の天守は山内一豊が増築したものです。
山内一豊は、豊臣秀吉の死後徳川家康に仕え、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に味方したため、土佐一国を与えられました。
- 江戸時代の掛川城
- 山内一豊が土佐に移封された後、掛川城は複数の大名家によって治められました。
最終的に太田氏が入城し、掛川藩を治めます。
幕末の安政元年(1854年)、安政の大地震が発生して、掛川城も天守をはじめとする大部分の建物が倒壊しました。
その後、二の丸御殿は政務ところでもあったので再建されましたが、天守は再建されることなく明治を迎えます。
- 明治以降の掛川城
- 明治2年(1872年)、掛川城は廃城となり多くの建物が取り壊されました。
しかし、御殿は取り壊しを免れ、現在も公開されています。
掛川城御殿は昭和55年(1980年)に重要文化財に指定され、江戸末期の建築を伝える重要な資料にもなっています。
平成6年(1994年)安政の大地震で失われた天守が木造で復元されました。
木造復元天守閣の中では最も古いものです。
翌年には大手門が位置をずらして復元され、平成18年(2006年)には日本100名城に指定されました。
- まとめ
- 現在、掛川城は掛川市の観光名所となり、毎年数多くの催し物が行われています。
掛川城天守閣は修復中で、見学再開は2023年4月1日の予定です。
なお、御殿などほかの建物は見学ができます。
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- 山内一豊戦国の出世と内助の功
- 戦国の時代。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の3人に仕え、高知県を領地に持った大名がいました。山内一豊です。一豊の父は尾張国で織田信長に敵対し、滅ぼされました。一豊は放浪の末に織田家に仕え戦国を生き抜きま