HISTORY
伊達政宗にも縁ある「高田城」
高田城は、新潟県上越市本城にあった平城です。別名を鮫ヶ城ともいい、徳川家康の六男に当たる松平忠輝の居城として江戸幕府による天下普請によって建てられました。築城工事の総監督を伊達政宗が務めたことでも知られています。そんな高田城の歴史を紐解いていきましょう。
- 松平忠輝の居城として築城
- 高田城が築かれた新潟県上越市は蒲生氏、上杉氏を経て堀秀治が治めていました。堀秀治は文禄の役では名護屋城に参陣し、伏見城の普請でも大いに貢献したため、24歳の若さでに越前北ノ庄18万石から越後春日山30万石へ加増移封されます。しかし、豊臣秀吉が死去すると徳川家康に接近し、慶長6年(1600年)に起こった関ヶ原の合戦では東軍に味方しました。その結果、領土を安堵されますが慶長11年(1606年)に31歳の若さで亡くなりました。その後、嫡子の堀忠俊が跡を継ぎますが彼はまだ11歳だったため、藩の実権を握って家老の堀直清とその異母弟堀直寄の間で争いが起こりました。(越後福嶋騒動)その結果、堀家は改易になり、代わりに徳川家康の六男、松平忠輝が信濃川中島からこの地に移封されます。
堀氏は、福島城を築きましたが松平忠輝はこの城を破棄して高田城を建築します。高田城は天下普請によって築かれ、築城工事の総監督を務めたのは松平忠輝の舅に当たる伊達政宗でした。
高田城は高田平野にある菩提ヶ原に築かれ、本丸を取り巻くように二の丸、南側に三の丸、北側に北の丸といった配置でした。また、関川・青田川・矢代川・儀明川の流れを変えて堀に利用し、南側に造られた百間堀のみ人工の堀であったと伝えられています。曲輪には土塁が築かれ、石垣は築かれなかったと伝えられていますが近年の調査によって本丸には石垣が築かれていた可能性があることがわかりました。
家康の嫡男の居城なのに石垣が築かれなかった理由としては、築城を急いだため、地盤が軟弱で石垣を支えるだけの基礎工事が不可能であったといった説が挙げられています。
菩提ヶ原は低湿地だったため、高田城は排水設備として暗渠も備えられており、その工事技術は現在のものと遜色ないものでした。
高田城は慶長19年(1614年)3月に築城が始まり、7月には基本的な普請が完成します。しかし、その後すぐに大阪の陣が勃発し、さらに城主になるはずだった松平忠輝が改易されるなどしたため、高田城の築城工事は櫓をはじめとする重要な部分が未完成のまましばらくの間放置されました。天守閣の代わりとなる櫓も基本的な普請が完成して10年以上経ったころ、松平光長によって建てられと伝わっています。
なお、寛文5年(1655年)に発生した高田地震によって高田城は多くの建物が被害を受け、三重櫓を新たに建築したという記録が残っています。
高田城はその後明治維新まで高田藩の藩庁として機能しました。
- 明治以降の高田城
- 明治3年(1870年)、高田城は火災によって本丸御殿、三重櫓などが焼失しました。そして3年後の明治6年(1873年)、廃城令が発布されて焼失を免れた建物も取り壊されます。跡地には陸軍第13師団の駐屯地や城址公園になり、それを記念して3,000本のソメイヨシノも植栽されました。また、廃藩置県の後に戊辰戦争や凶作で疲弊した藩の財政や収入を得る手段が絶たれた士族の授産のために、保阪貞吉という人物が外堀を利用して蓮(れんこん)の栽培を始めます。
れんこんを収穫する目的での蓮の栽培は昭和30年代に終了しますが、高田城址公園には現在も蓮が観賞用に栽培されています。
現在、高田城址は新潟県指定史跡に指定されています。また、平成5年(1993年)に上越市発足20周年を記念して三重櫓が復元、平成14年(2002年)には、二の丸から本丸に渡っていた極楽橋も発掘調査に基づいて復元されました。
復元された三重櫓は鉄筋コンクリート造りですが、最上階天井は本格的な木組みを用いています。内部は資料館や展示室になっており、上越市を代表する観光スポットです。
平成29年(2017年)続日本100名城(132番)に選定されています。
- まとめ
- 現在、高田城は城址公園となり復元された三重櫓は観光スポットや市民の憩いの場として親しまれています。高田城址公園は、市街地に位置する公園としては50haという広さをほこっており、春は桜、初夏は蓮の名所として親しまれています。
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