HISTORY
あやめ城の別名を持つ新発田(しばた)城
新発田城は新潟県新発田市に存在した平城です。城が完全な形になったのが承応3年(1654年)と遅かったため、天守閣の代わりに三階櫓がしつらえられています。現在は敷地の一部が自衛隊駐屯地になっていますが、新潟県唯一の建築がある城跡として日本100名城の1つにも数えられています。
そんな、新発田城の歴史を紐解いていきましょう。
- 江戸時代以前の新発田
- 新発田の地は、鎌倉幕府成立にも貢献した佐々木盛綱を祖とする新発田氏が室町時代より治めていました。この地に城を築いたのも新発田氏が最初です。旧新発田城は代々新発田氏の居城となってきましたが、天正9年(1581年)、新発田重家が君主である上杉景勝に対して反乱を起こします。(新発田重家の乱)乱は天正15年(1587年)まで続き、新発田氏は亡びました。旧新発田城もこのときに落城しています。
その後、上杉氏は豊臣秀吉の命令によって会津に移封され、その後慶長2年(1597年)、溝口秀勝が6万石で新発田の地を拝領しました。彼は、旧新発田城の跡地に新しい城を建築し始めます。これが、現在復元された新発田城です。なお、築城が完全に終了したのは承応3年(1654年)であり、完成まで50年以上の年月が経っています。
- 江戸時代の新発田城
- 新発田城は、戦乱の世がほぼ終った慶長2年(1597年)に平地に作られた城です。天守閣は最初から作られず、本丸の北西隅に三重櫓を作り天守閣の代わりとしました。「三階櫓」と名付けられたそこは、寛文8年(1668年)の火災で焼失した後、延宝7年(1679年)に再建されています。再建された三階櫓は3重目の屋根棟が丁字型になっており、3匹の鯱が飾られていました。これは非常に珍しい形で、現在では新発田城以外に見ることはできません。三階櫓は明治7年(1894年)に破棄された後、平成16年(2004年)に再建されています。
また、積雪対策としてなまこ壁が用いられたり、建物の屋根が一部茅葺であったりと戦用の城でないことがわかります。別名を「あやめ城」とも呼ばれたことから、当時から戦ではなく、政庁としての機能を最優先して建てられていたと推測されます。
- 江戸時代以降の新発田城
- 明治になって廃城令が発令されると、新発田城は歩兵第8大隊をはじめとする陸軍の駐屯所が置かれました。明治初期は陸軍の駐屯所が城の跡地に置かれることは珍しくありませんでした。しかし、新発田城以外に新潟県内に部隊が駐屯できるところがなかったことから明治6年まで歩兵第8大隊は新発田城に駐屯した後、高崎に移ります。それでも、全舞台揃っての移動ではなく、第2中隊が新発田城に残ったままでした。その後、第二中隊は歩兵第16連隊に拡充し、結局太平洋戦争が終るまで新発田城は駐屯地であり続けたのです。明治に陸軍の駐屯地になった城跡のほとんどが、大正期には自治体に土地が返還されて公園等に整備された中、陸軍が常駐していた新発田城は異例です。
なお、太平洋戦争後も新発田城の一部は自衛隊の駐屯地となっており、復元された三階櫓も自衛隊の敷地内にあるため内部は見学できません。
その一方で、自衛隊の敷地以外のところは城址公園として整備され、国の重要文化財に指定されている本丸表門や旧二の丸隅櫓、三階櫓と同時期に復元された辰巳櫓は見学が可能です。
ちなみに、日本唯一の3匹の鯱も外から見学できます。
現在、新発田城は復元された三階櫓と自衛隊の車両や自衛隊員を一緒に見ることができ、映画「戦後自衛隊のようだ」と人気があります。基地が開放されて模擬訓練が見学できる記念行事の日には、珍しい光景を一目見ようと多くの見学者が訪れる観光地となりました。
- まとめ
- 新発田城は戦乱が過去の物になりつつある時代に築城され、明治から現在まで陸軍や自衛隊の駐屯地になった珍しい城です。
平成18年(2006年)には日本100名城の1つに選ばれ、城址公園では四季折々の花が楽しめます。桜の時期はライトアップも行われるため、夜桜の見物に多くの方が訪れます。