HISTORY
日本三大湖城の一つ高島城
高島城は、長野県諏訪市高島に築かれた平城です。築城時は諏訪湖に突き出した浮島に作られていたことから、「諏訪の浮城」ともよばれ、日本三大湖城の一つに数えられています。
当時としては最先端の技術を使って建てられた城は、続日本100名城(130番)にも選定されました。そんな高島城の歴史を紐解いていきましょう。
- 高島城が築かれる以前の諏訪
- 中世、現在の諏訪高島城の北方に位置する茶臼山に、諏訪郡一帯をおさめていた諏訪氏が高島城(茶臼城)を築きました。この城は、名前こそ一緒ですが山城です。諏訪氏が滅亡した後、諏訪の地は武田氏の支配下となり、この高島城は諏訪郡支配の拠点となります。
天正10年(1582年)に武田氏が滅亡すると、諏訪郡は一時期織田信長が支配しましたが、同年に本能寺の変が起って織田信長が殺されると、武田氏に滅ぼされた諏訪氏の一門である諏訪頼忠が諏訪市中洲に金子城を築き、居城としました。しかし、彼も590年(天正18年)に諏訪頼忠が武蔵国に転封となり、代わりに羽柴秀吉の配下である日根野高吉が茶臼山にあった高島城に入城します。
- 日根野高吉による諏訪高島城築城から江戸時代末期まで
- 日根野高吉は、文禄元年(1592年)~慶長3年(1598年)まで、7年近い歳月をかけて諏訪湖畔の高島村に諏訪高島城を築きます。このとき、彼は漁業権や賦役免除権を与えたうえで、彼らを小和田へ移転させました。日根野高吉は、織田信長や豊臣秀吉のもとで普請を経験したいたことから、軟弱な地盤である諏訪湖の浮城にも城を築くことができた、と伝えられています。
諏訪高島城は、木材を筏状に組んでその上に石を積むなど当時としては最新の技術が使われました。それでも、7年という短い期間で普請をおこなうのは大変だったらしく、過酷な労役に苦しんだといった記述が残る資料も複数残っています。
こうしてできあがった諏訪高島城は北から衣之渡郭、三之丸、二之丸、本丸が一直線に並ぶ「連郭式」と呼ばれる形態で、8棟の櫓、6棟の門、3重の天守などが備わっていました。
なお、江戸時代初期におこなわれた諏訪湖の干拓事業のため諏訪高島城から水城の面影わ消えてしまいましたが、それでも浮城の異名を持ち、日本三大湖城の一つにも数えられました。
諏訪高島城を築いた日根野高吉は、慶長6年(1601年)に下野国壬生藩に転封となり、譜代大名の諏訪頼水が城主として入ります。彼は、中世の頃から諏訪郡を治めていた諏訪氏の末裔であり、結果的に諏訪氏が明治維新まで諏訪家がこの地を治めることになりました。
なお、諏訪高島城は徳川家康六男の松平忠輝の幽閉場所になったところでも有名で有り、そのご縁から、たびたび流人の幽閉場所として利用されています。
- 明治以降の諏訪高島城
- 明治を迎えると、諏訪は高島県となって高島城は廃城となり、県庁として使用されました。
明治8年(1875年)になると、天守閣など大部分の建造物は破却もしくは移築され、高島城は堀と石垣たけになり、翌年に高島公園として一般に開放されました。
戦後、二の丸、三の丸は宅地となり昭和45年(1970年)には本丸に天守・櫓・門・塀が復元され観光名所となります。平成27年(2017年)には続日本百名城の1つにも選定され、現在にいたります。
- まとめ
- 現在、諏訪高島城は城内に企画展示コーナー・情報コーナーを設けられており、諏訪藩の歴史や歴代城主の足跡を知ることができます。
また、諏訪高島城は桜の名所でもあり、毎年春になると地元の方や観光客で賑わいます。
高島城と関連する事件を読む
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- 260年余り続いた江戸時代には、幾度となく各藩でお家騒動が発生していました。そんなお家騒動の一つが明和7年(1770年)から天明3年(1783年)にかけて信濃諏訪藩(高島藩とも、現長野県諏訪地方)で起