HISTORY
黒白の外壁が美しい国宝の城松本城
松本城は、長野県松本市にある平城です。安土桃山時代〜江戸時代初期に作られ天守を残し、国宝に指定されています。別名を「深志城」といい、「烏城」という俗称を持つことで知られています。そんな松本城の歴史を紐解いていきましょう。
- 信濃守護の小笠原氏が深志城を築城
- 建武元年(1334年)足利尊氏に従って鎌倉幕府倒幕に参加した小笠原貞宗が報償として信濃守護に命じられ、井川館を作ります。井川館は城というより大きめの館のようなものだったと伝えられています。長禄3年(1459年)、小笠原清宗が、林城という山城を築き、現在の松本城がある場所に支城として「深志城」を築きました。これが、松本城の前身とみなされています。
天文19年(1550年)甲斐(現在の山梨県)より武田信玄が信濃攻略に乗り出し、深志城と林城を攻め落とし、小笠原氏を追放しました。
小笠原氏が追放された後、信濃の地は武田氏の支配下に入ります。武田信玄は深志城を改築し、城代として馬場信春を配置しました。
- 小笠原氏の信濃奪還と松本城の築城
- 武田氏による信濃支配は23年間に及びました。天正10年(1582)織田信長によって武田氏が滅ぼされると、信濃は織田信長の支配下に入ります。その後、織田信長が本能寺の変によって明智光秀に討たれると追放されていた小笠原氏の末である小笠原洞雪斎が、木曽義昌の助力と上杉景勝の後ろ盾を受け、深志城を奪還します。
その後、徳川家康の後ろ盾を受けた小笠原長時の息子、小笠原貞慶が上杉景勝の傀儡となっていた小笠原洞雪斎を追放し、深志城を再奪還しました。
深志城を取り戻した小笠原貞慶は、宿城の地割・三の曲輪を縄張し・堀を掘って土手を築くなど、城を拡大して城下町を築城に着手しました。しかし、徳川家康の関東移封に付き従って、当時の松本城主であった小笠原秀政も下総古河へと移ります。
小笠原氏が移動した後、信濃に入ったのは石川数正です。石川数正とその息子、康長が深志城の改築を引き継ぎ、天守を建て、石橋・渡り矢倉・黒門・太鼓門の門楼などを増築します。
このときに、現在の松本城の形が完成しました。
しかし、その後石川康長は大久保長安事件により改易となったため、小笠原秀政が再び松本城の城主として移封してきます。
その後、松本城は江戸時代を通して松本藩の藩庁になりました。
- 江戸時代の松本城
- 江戸時代の松本城は、数度の改築を得て戦のための城から、政治を行う城へと変じていきます。また、享保12年(1727年)に本丸御殿が火災で焼失し、以後二の丸で藩政が取られるようになりました。
- 明治以降の松本城
- 明治を迎えると、松本城は競売にかけられ、解体の危機にさらされます。しかし、南佐久郡郡長の市川量造をはじめとする有志たちの手によって買い戻され、危機を免れました。
しかし、不審火で二の丸御殿が焼失したり天守が大きく傾いたりしたため、明治36年(1903年)〜大正2年(1913年)にかけて、後に「明治の大修理」と呼ばれる大がかりな修理が行われます。
そのほか、総堀の大部分が住宅地の確保などを理由に埋められました。
その後、1930年(昭和11年)に天守・乾小天守・渡櫓・辰巳附櫓・月見櫓の5棟が国宝保存法により当時の国宝に指定されました。
そして戦後、昭和25年(1950)〜昭和30年(1955)まで二回目の大修理が行われます。
平成に入ると、取り壊されていた黒門・二の門・袖塀・太鼓門枡形が復元され、江戸時代の松本城に近い姿を取り戻しました。
平成18年(2006年)には、日本の城100選に選ばれます。
- 現在の松本城
- 現在の松本城は、観光の名所であると同時に人々の憩いの場になっています。松本天守は有料ですが、その周囲の松本城公園は無料です。
松本城公園は、桜や藤などさまざまな植物が植えられており、桜祭りなどのさまざまなイベントが行われています。
このほか、そば祭や合同茶会など食に関するフェスティバルも行われており、毎回賑わいます。
松本城と関連する人物記を読む
- 松平直政大坂の陣で活躍した出世株
- 室町時代後期、中国の歴史になぞらえて戦国時代とも呼ばれた戦乱の世。この時代に終止符を打ったのが、徳川家康。家康は多くの家来に支えられ、江戸幕府を興して天下人となります。家康の孫として大坂の陣で活躍した
- 石川数正天下人の忠臣から裏切り者へ
- 室町時代後期、中国の歴史になぞらえて戦国時代とも呼ばれた時代。この時代の終止符を打ったのが徳川家康でした。家康は多くの家来に支えられながら、江戸幕府を興して天下人となります。この家康を若い頃より支えた