HISTORY
加賀百万五石の中心地であった金沢城の過去と未来を語る
「加賀百万石」と呼ばれた加賀藩。その藩政の中心にあったのが金沢城です。前田利家が築城し、明治時代になるまで藩政の中心であり続けました。その一方で何度も天災で焼失するという悲劇に見舞われた城でもあります。この記事では、金沢城の歴史をひもといて行きましょう。
- 一向宗の支配地であった加賀
- 加賀は、室町時代末期から一向宗が自治を敷いた国でした。長享2年(1488年)に一向一揆が起こり守護職、富樫氏が追放された後、門徒が拠点として金沢御堂(かなざわみどう)別名、尾山御坊を築きます。これが、金沢城の前身です。門徒達は金沢御堂を中心本堂や宿泊所を設け、周辺に寺内町を築きます。一向宗による自治は100年近く続きました。金沢御堂の名残として、金沢城内にかかる「極楽橋」があります。
- 織田信長が門徒を滅ぼす
- 一向宗の門徒による自治が終わりを告げたのは、天正8年(1580年)のことです。天下統一を推し進めていた織田信長は天正5年(1577年)より上杉軍と戦をし続けていました。上杉謙信の戦術に織田信長は苦戦しますが、天正6年(1578年)に謙信が亡くなったことにより、織田信長は一気に上杉家の領土を侵略します。それに合わせて一向一揆も平定されました。このとき、織田軍を率いたのが前田利家や柴田勝家、佐々成政といった重臣達でした。一向衆の門徒達を滅ぼした織田信長は、金沢御坊を取り壊して金沢城をつくり、その城主に佐久間盛政を置いたのです。
- 豊臣秀吉が前田利家に加賀を与える
- 織田信長の死後、佐久間盛政と豊臣秀吉(羽柴秀吉)が賤ヶ岳の戦いでぶつかり合い、佐久間盛政と柴田勝家が討ち死にします。秀吉はその後、加賀の地を前田利家に与え、金沢城の城主になるように命じます。こうして、加賀は前田家の治める土地になりました。金沢城に入った前田利家は、文禄元年(1592年)から城の大改修工事を始め、曲輪や堀の拡張、5重の天守や櫓を建てます。これが現在の金沢城址となります。
- 江戸時代の金沢城
- 江戸時代を通じて、金沢城は加賀藩藩主前田家の居城となります。加賀藩は明治になるまで一貫して前田家に治められ、前田家は外様大名でありながら幕府と強く結びついていました。現在も残る兼六園は加賀藩5代藩主前田綱紀が金沢城に付属してつくらせた蓮池庭が始まりであり、代々の藩主が手を加えて今の形になりました。加賀藩は明治になるまで安定した土地でしたが、金沢城は落雷や失火により度々天守などの建物が焼失しています。そのため、何度も改修が行われました。
- 明治時代以降の金沢城
- 明治時代になり、廃藩置県が行われると金沢城は陸軍省に引き渡されます。その後、陸軍歩兵第7連隊の本拠地になります。城の建物は明治14年(1881年)の火災により石川門・三十間長屋・鶴丸倉庫を残して焼失しました。その後、明治31年(1898年)に陸軍第9師団司令部が置かれ、第二次世界大戦が終わるまで存続します。戦後、昭和24年1949年に国立大学の金沢大学が新設され、キャンパスが金沢城址に置かれました。
- 金沢城址が国の史跡になる
- 昭和25(1950)に石川門が国の重要文化財に指定されたことを皮切りに、昭和32(1957)三十間長屋が国の重要文化財に指定されます。昭和53(1978)になると金沢大学が城内からの移転を決定し、少しずつ移築も始まりました。昭和60年(1985年)になると、兼六園が国の名勝に指定されます。そして、平成8(1996) 県が国から用地を譲り受け、金沢城公園として整備がはじまりました。平成10年代〜菱櫓・河北門・橋爪門二の門・河北門・鼠多門・鼠多門橋などが、次々と復元されています。
- 現在の金沢城址
- 現在の金沢城址は、金沢城公園として金沢市を代表する観光地となっています。復元された菱櫓・河北門・橋爪門二の門・河北門・鼠多門などをはじめ、石垣やお堀など往年の金沢城を偲ぶ遺構が見学できます。また、隣接する兼六園は四季折々の花を楽しむことができます。日本を代表する名園の1つとして、国内外からたくさんの観光客が訪れており、併せて見学することが一般的です。四季を通して魅力がある名園ですが、冬、花のない時期でも雪囲いが風物詩となっています。また、紅葉や桜の季節は城址の建物と併せて夜間ライトアップなどを実施中です。なお、江戸時代からの遺構である石川門・三十間長屋・鶴丸倉庫などは、年に数回特別公開されています。
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