HISTORY
北陸の城の中で唯一天守閣が現存する丸岡城
丸岡城は福井県坂井市丸岡町霞にある平山城です。別名を「霞城」といいます。現在は天守のみ存在し、北陸唯一の現存天守として重要文化財に指定されています。
江戸時代には丸岡藩の藩庁として機能しました。そんな丸岡城の歴史を紐解いていきましょう。
- 江戸時代以前の丸岡城
- 丸岡城は、天正4年(1576年)織田信長の家臣として有名な柴田勝家の甥に当たる柴田勝豊によって築かれました。築かれた当時は、柴田勝家の居城である北ノ庄城の支城扱いでした。
なお、現存する天守は長い間このときに作られたものという説が有力でした。
しかし、2019年に坂井市教育委員会の学術調査が行われた結果、江戸時代の寛永年間(1624年~1644年)に建造されたことが分かりました。
現存する天守は、大入母屋の上に廻り縁のある小さな望楼を載せた古式であり、建築された当時としても古い形です。
二層三階建てになっており、一階には「石落とし」や「狭間(さま)」が設置してあります。
通し柱ではなく、1階が2~3階を支える構造は他の天守ではあまりみられない造りです。
また、1階から2階に上がる階段の角度は65度、2階から3階へ上がる階段は67度という急階段も、他の城ではめったにみることができません。
江戸時代に建てられた天守の多くが城主の威厳をしらしめるために、豪奢に作られているのに対し、丸岡城は実戦に備えた城といえます。
- 江戸時代の丸岡城
- 丸岡城は寛永年間に天守が建て直されたことが分かっていますが、それを示す資料は見つかっていません。
また、大規模な修理が行われたという記録も残っていないので、江戸時代に丸岡城がどのように変化したのかはまだ調査が待たれています。
- 明治以降の丸岡城
- 明治4年(1871年)になると、丸岡城は廃藩置県によって廃城となります。
天守以外の建物は順次解体され、城跡は丸岡市によって天守ごと買い戻されて城址公園となりました。
昭和9年(1934年)、天守が当時の法律に基づき国宝に指定されます。
昭和23年(1948年)福井地震により天守は倒壊してしまいました。
昭和24年(1949年)天守が改めて重要文化財に指定され、当時の町長である友影賢世さんらが音頭を取り大修復工事が開始されます。
そして、昭和17年(1942年)に作られた調査書を元に、昭和25年(1950年)に倒壊した天守の建材を使い、見事に復元されました。
これが、現在後悔されている丸岡城になります。
平成2年(1990年)に、城址公園が「霞ヶ城公園」としてさくらの名所100選に選ばれました。
また、平成18年(2006年)には日本の名所100選に選ばれています。
- 現在の丸岡城
- 現在の丸岡城は北陸で唯一天守閣が現存とする城として観光名所になっています。
入場料を払えば天守は自由に入ることができ、写真撮影も可能です。
江戸時代初期に建造された実戦的な城を見学できる数少ない場所ということで、多くの歴史ファンが訪れています。
また、城の周辺では明治時代に埋め立てられた外堀の一部が現在も用水路として活用されています。
このほか、一筆啓上火の用心~始まる手紙で有名な本多重次が城主を務めたことがあることから、一筆啓上の碑が築かれ、毎年開催されている「日本一短い手紙文コンクール」の入賞作を展示する掲示板も設置されています。