丸岡城福井県坂井市

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丸岡城DATA
天守 現存天守
別称 霞ヶ城
築城 1576年
住所 福井県坂井市丸岡町霞町1-59
営業時間 8:30〜17:00(最終入場は16:30)
休城日 年中無休
入城料金 大人450円/小人150円

丸岡城は現存天守(現存十二天守)のひとつ、北陸地方に残る唯一の天守。

丸岡城への交通アクセス
JR丸岡駅からバス下車徒歩5分。

HISTORY 北陸の城の中で唯一天守閣が現存する丸岡城

丸岡城は福井県坂井市丸岡町霞にある平山城です。別名を「霞城」といいます。現在は天守のみ存在し、北陸唯一の現存天守として重要文化財に指定されています。 江戸時代には丸岡藩の藩庁として機能しました。そんな丸岡城の歴史を紐解いていきましょう。

江戸時代以前の丸岡城
丸岡城は、天正4年(1576年)織田信長の家臣として有名な柴田勝家の甥に当たる柴田勝豊によって築かれました。築かれた当時は、柴田勝家の居城である北ノ庄城の支城扱いでした。
なお、現存する天守は長い間このときに作られたものという説が有力でした。 しかし、2019年に坂井市教育委員会の学術調査が行われた結果、江戸時代の寛永年間(1624年~1644年)に建造されたことが分かりました。
現存する天守は、大入母屋の上に廻り縁のある小さな望楼を載せた古式であり、建築された当時としても古い形です。 二層三階建てになっており、一階には「石落とし」や「狭間(さま)」が設置してあります。 通し柱ではなく、1階が2~3階を支える構造は他の天守ではあまりみられない造りです。
また、1階から2階に上がる階段の角度は65度、2階から3階へ上がる階段は67度という急階段も、他の城ではめったにみることができません。 江戸時代に建てられた天守の多くが城主の威厳をしらしめるために、豪奢に作られているのに対し、丸岡城は実戦に備えた城といえます。
江戸時代の丸岡城
丸岡城は寛永年間に天守が建て直されたことが分かっていますが、それを示す資料は見つかっていません。 また、大規模な修理が行われたという記録も残っていないので、江戸時代に丸岡城がどのように変化したのかはまだ調査が待たれています。
明治以降の丸岡城
明治4年(1871年)になると、丸岡城は廃藩置県によって廃城となります。 天守以外の建物は順次解体され、城跡は丸岡市によって天守ごと買い戻されて城址公園となりました。
昭和9年(1934年)、天守が当時の法律に基づき国宝に指定されます。
昭和23年(1948年)福井地震により天守は倒壊してしまいました。
昭和24年(1949年)天守が改めて重要文化財に指定され、当時の町長である友影賢世さんらが音頭を取り大修復工事が開始されます。
そして、昭和17年(1942年)に作られた調査書を元に、昭和25年(1950年)に倒壊した天守の建材を使い、見事に復元されました。 これが、現在後悔されている丸岡城になります。
平成2年(1990年)に、城址公園が「霞ヶ城公園」としてさくらの名所100選に選ばれました。 また、平成18年(2006年)には日本の名所100選に選ばれています。
現在の丸岡城
現在の丸岡城は北陸で唯一天守閣が現存とする城として観光名所になっています。 入場料を払えば天守は自由に入ることができ、写真撮影も可能です。 江戸時代初期に建造された実戦的な城を見学できる数少ない場所ということで、多くの歴史ファンが訪れています。 また、城の周辺では明治時代に埋め立てられた外堀の一部が現在も用水路として活用されています。 このほか、一筆啓上火の用心~始まる手紙で有名な本多重次が城主を務めたことがあることから、一筆啓上の碑が築かれ、毎年開催されている「日本一短い手紙文コンクール」の入賞作を展示する掲示板も設置されています。

丸岡城を藩庁とする、丸岡藩の歴史

丸岡藩本多家と有馬家が治める
丸岡藩は、本多家と有馬家の2つによって幕末まで修められました。丸岡藩とはどのような藩だったのか、その歴史を紐解いていきましょう。 本多家が丸岡藩を成立させるまで 丸岡城は、柴田勝家の姉の息子(甥)であ
丸岡藩
丸岡藩DATA
藩庁 丸岡城
旧地域 越前国坂井郡
石高 4万石
譜代・外様 譜代
主な藩主 本多家・有馬家
推定人口 2万3000人(明治元年)

福井藩の丸岡城代であった本多成重4万6000石を得て入封。続いて有馬清純が入封。有馬家が8代続く。

北陸唯一の現存天守、丸岡城

福井県坂井市の丸岡城は北陸に残された唯一の現存天守です。周辺には石垣が少し残る程度で見どころはほぼ天守のみ。合戦時に大蛇が現れて霞を吹き、城を隠して守ったという伝説から「霞ヶ城」とも呼ばれています。桜の名所で毎年3月下旬~4中旬には「丸岡城桜まつり」が開催され、約400本のソメイヨシノが城を美しく彩ります。

丸岡城
丸岡城の歴史
丸岡城は天正4年(1576年)、柴田勝家の甥で養子の柴田勝豊によって築城された連郭式の平山城です。天正3年(1575年)、織田信長は越前の一向一揆を滅ぼし、勝家は戦の功績により越前49万石を信長から与えられます。勝家は北ノ庄城(現在の福井県福井市)を居城としており、勝豊に北ノ庄城の支城として丸岡城を築かせました。
本能寺の変後の清須会議で勝豊が近江国に移ったのちは勝家の重臣・安井家清が入りますが、天正11年(1583年)4月の賤ケ岳の戦いで勝家は羽柴秀吉に敗れて自害。家清も命を落としました。
越前国は秀吉方の武将・丹羽長秀が治め、丸岡城には長秀の家臣・青山宗勝が入りましたが、関ヶ原の戦いにより丹波氏は改易。代わって福井藩(越前藩、北ノ庄藩とも)67万石の支配を任されたのが徳川家康の次男・結城秀康で、丸岡城には家臣の今村盛次が入城します。
結城秀康が病没し、わずか13歳で松平忠直が跡をつぐと家臣の派閥争いが激化し、越前騒動(久世騒動)と呼ばれるお家騒動が勃発。武力衝突まで起きたため幕府が介入しました。越前騒動により今村盛次は失脚し、代わって本多成重が福井藩の附家老として4万3000石で入城。元和9年(1623年)に忠直が改易され、寛永元年(1624年)に松平忠昌が福井藩主に就くと、丸岡城は福井藩から独立し、丸岡藩となりました。
丸岡藩はしばらく本田氏が支配しますが、4代目藩主の本多重益が酒に溺れる無能藩主だったことからまたもや内紛が発生。幕府が介入して本田氏は改易され、元禄8年(1695年)に有馬清純が藩主に就き、有馬氏はそのまま明治まで丸岡藩を統治しました。
丸岡城は明治時代の廃城令で民間に払い下げられましたが、天守は地元の有志達により買い戻され、町に寄贈されたため残されました。1948年6月の福井大地震では石垣もろとも倒壊しますが、1951年から元の部材を70%以上再利用して修復・再建作業をおこない、1955年に完了しました。
丸岡城の天守は「現存12天守最古」?
丸岡城の天守は重要文化財に指定されており、以前は「現存12天守最古の城」と言われていました。天正4年(1576年)に城が建てられたのは江戸時代の史料からほぼ間違いないようですが、天守の建てられた時期は①天正4年説②慶長18年(1613年)以降説、の2説に分かれていました。
現在は坂井市教育委員会が2015年から3年間実施した天守の学術調査で、部材の柱の多くは1620年代の後半以降に伐採されたものだと判断されたことで、天守は寛永年間(1624年〜1643年)頃に整備されたものだと推定されています。つまり「最古」の天守ではなくなったのです。
なお、調査で1階と2階の床板のなかから16世紀後半と推定される木材が見つかったことなどから、現在の天守の前にもう一つ天守があったのでは、との説も出されており、今後の研究が待たれます。
現在天守の見どころ
丸岡城の天守は入母屋造りの屋根の上に望楼が載った2層3階の「望楼型天守」です。屋根は現存12天守としては唯一の石瓦葺きで、銅張りの鯱が載っています。廻縁が張り巡らされた3階の「天井の間」では、四方の窓から美しい景色を見渡せます。
丸岡城の天守の特徴は急な階段です。1階から2階に上る階段が65度、2階から3階部分で67度とあまりに急なので、観光客用にロープが備え付けられています。これは敵兵の侵入を防ぐための策で、1階には石落としがあるほか、天守の壁面に狭間が設けられています。
天守台の石垣と天守の床の間には「腰屋根(腰庇)」と呼ばれる雨漏り防止の小さな板張り屋根があります。これは天守が石垣より一回り小さく作られていたためで、天守と石垣の隙間に雨水が入り込まないようにする工夫です。
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天守の屋根に注目
天守の屋根には約6000枚の石瓦が載っており、屋根全体で120トンの重さがあります。このため1階だけでも26本の柱を設けて屋根を支えています。
豪雪地帯にある丸岡城を守るため、石瓦の2割程度が福井県福井市・足羽山周辺で採掘できる加工歴凝灰岩「笏谷石」(しゃくだにいし)でできています。笏谷石は寒さや重さに強い石で、通常は薄いブルーグリーンですが水にぬれると深い碧色に変わります。このため、雨の日の丸岡城はちょっとシックでしっとりとした表情を見せるのです。
なお、福井地震で落下するまでは鯱も笏谷石製。落下したものは天守入り口の階段横で見学できます。
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丸岡城ゆかりの「日本一短い手紙」
丸岡城には「日本一短い手紙」のエピソードが伝わっています。それが「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥せ」で、徳川家康の家臣・本多重次が天正3年(1575年)、長篠の戦いの陣中から妻に送った手紙として知られています。
手紙の内容は「簡単に申し上げる。火元に気をつけ、お仙(長男の仙千代)を泣かすことなく、戦に必須の馬をしっかり世話せよ」というもの。ここででてくる「お仙」は丸岡藩初代藩主の本多成重のことです。
丸岡城の周辺には「一筆啓上石碑」や日本一短い手紙コンクール「一筆啓上賞」の入賞作品等が掲示された「一筆啓上 日本一短い手紙の館」があります。
おすすめフォトスポット
天守はとてもコンパクトなので、近くから撮影するのがベスト。少し離れて撮影する場合はお天守前公園からがおすすめです。
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栗本 奈央子
執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。