HISTORY
徳川家康が生誕した城、岡崎城
岡崎城は、愛知県岡崎市康生町にあった平城です。江戸幕府を開いた徳川家康が誕生した城としても知られており、江戸時代は岡崎藩の藩庁として機能しました。
2023年の大河は徳川家康が主人公ということで、岡崎城にも改めて注目が集まっています。
そんな岡崎城の歴史を紐解いていきましょう。
- 岡崎城築城以前の歴史
- 岡崎城が築城された土地は、15世紀の初め頃である永享年間に西郷稠頼という人物が居城を構えことから開発と発展が始まります。
この居城は築城当時、「平岩城」と呼ばれていました。
享徳元年(1452年)~康正元年(1455年)にかけて、西郷稠頼が菅生川北岸にある龍頭山という場所に、新たに砦を建築します。
当時、東海道が菅生川南に通っており西郷稠頼が平岩城を築いたあたりが、「岡崎」と呼ばれていました。
そのため、平岩城は「旧岡崎城」とも呼ばれています。
西郷稠頼から数えて3代目にあたる西郷信貞(松平昌安)は、平岩城を居城にして、岡崎市南部一帯を支配しました。
- 岡崎城移築から明治までの歴史
- 大永4年(1524年)、徳川家康の祖父にあたる松平清康が家臣の大久保忠茂等に命じて、西郷信貞の持ち城であった山中城を奇襲して落城させます。さらに信貞へ岡崎城の明け渡しを要求し、これを認めさせました。
松平清康は、今まで本拠にしていた安城から岡崎へ移します。
享禄3年(1530年)から翌年にかけて、松平清康は龍頭山の砦へと本拠を移し、旧岡崎城の建物も一部そちらへ移築しました。
これが、現在の岡崎城です。城だけでなく、岡崎松平家菩提寺の大林寺を城北に、安城からは甲山寺を城の北東に移築するなど城周辺の整備にも力を入れました。
天11年(1542)、徳川家康はこの城で誕生します。徳川家康は6歳で織田家、8歳で今川家へ人質となったため、この城で過ごした期間は短いのですが、永禄3年(1560)に起こった桶狭間の戦いで今川義元が討死にしたことをきっかけに人質から開放され、以後岡崎城を拠点に天下統一に乗り出すことになります。
元亀元年(1570)、徳川家康は自身の本拠地を遠江浜松(現、静岡県浜松市)へ移し、長男松平信康を城主に据えます。信康が自害した後、岡崎城は石川数正や本多重次といった徳川家重臣が城主を務めました。
天正18年(1590)に、徳川家康が豊臣秀吉の命によって江戸に本拠地を移すと、岡崎城の城主は豊臣家の家臣である、田中吉政となります。
徳川家康が征夷大将軍に任じられて江戸幕府を開くと、岡崎城は本多氏、水野氏、松平氏などの譜代大名が城主を務めることが慣例となりました。
徳川家康が本拠地にしていた頃の岡崎城は山城の規模がやや大きくなった程度の規模でしたが、慶長6年(1601)に岡崎城城主となった本多康重、忠利の手によって大改築が行われて、現在復元されている状態に近くなります。
このとき、建築されたのが複合連結式望楼型3重3階の天守や、持仏堂曲輪などです。
岡崎城は、当時東海地方で3番目の規模をほこる大きな城となり、幕末まで岡崎藩の藩庁として機能しました。
- 明治以降の岡崎城
- 明治を迎え廃藩置県が実施されると岡崎城は廃城となり、建物はすべて取り壊されました。
遺構として残っているのは、仏堂曲輪、隠居曲輪、風呂谷等の曲輪や石垣、堀のみです。
敷地は、龍城神社や岡崎公園として整備され、市民に広く開放されました。
昭和34年(1959)に天守閣が再興され、平成22年(2010年)に望楼式二重櫓で東隅櫓が再建されます。
この櫓は城の敷地から発掘された石材なども使い、江戸時代の工法を忠実に再現して建築されました。
なお、復興された天守は平成18年(2006)に日本の100名城に指定されました。
現在、岡崎城内部は歴史資料館になっており、岡崎公園内にある「三河武士のやかた家康館」と併せて見学すれば、徳川家康の天下統一までの歩みを知ることができます。
2023年放送の大河ドラマが徳川家康が主人公であることから、現在リニューアルを行っており、再オープンは2023年1月末を予定しています。
- まとめ
- 岡崎城は岡崎の藩庁であると同時に徳川家康が誕生した神聖な場所として、重要視された城です。
現在も岡崎市内の再開発の際に、石垣や堀の遺構が見つかることもあり、当時の規模の大きさが分かります。
1月21日から、岡崎城と三河武士のやかた家康館がリニューアルオープンするので、足を運んでみてはいかがでしょうか?
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