名古屋城愛知県名古屋市

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名古屋城DATA
別称 金鯱城、金城、柳城、亀屋城、蓬左城
築城 1609年
住所 愛知県名古屋市中区本丸1-1
電話番号 052-231-1700
開館時間 午前9時~午後4時30分(本丸御殿への入場は午後4時まで)
休館日 12月29日~31日、1月1日
登閣料 大人500円/名古屋市内高齢者100円/中学生以下無料

「尾張名古屋は城でもつ」と江戸時代から俗謡に唄われるほど名城の誉れ高い名古屋城。「名城」「金鯱城(きんしゃちじょう)」という別名を持ち、現在は、日本百名城の1つにも数えられています。名古屋城の歴史は古く、織田信長もここで誕生したという節もあります。

名古屋城への交通アクセス
名城線「市役所」下車7番出口より徒歩5分。

HISTORY 名古屋城について

現在の城は徳川家康の命令によって築かれ、江戸時代を通して尾張藩藩主の居城になりました。その歴史をひもといて行きましょう。

現在、復元されている名古屋城は慶長14年(1609年)に築城されました。しかし、名古屋城が建っている場所には、室町時代から那古野城という城があり、これが名古屋城の前身とされています。築城年数は定かではありませんが、16世紀半ばに今川義元の父、今川氏親が築城したと伝えられています。その後、那古野城城主になったのは今川氏豊という人物ですが、彼は天文元年(1532年)に織田信長の父、織田信秀の計略により城を追い出されてしまいます。その後、城は織田信秀の手に渡り織田氏の拠点となりました。なお、織田信長はこの那古野城で生まれたという節もあります。織田信秀は幼い信長を那古野城の城主に据え、自身は天文3年(1534年)に古渡城を築き、そこに移りました。

弘治元年(1555年)に父信秀の後を継いだ織田信長は一族の織田信友を滅ぼした後、拠点を清洲城へと移します。那古野城はその後信長の叔父、織田信光や信長の重臣、林秀貞が入城したと伝えられていますが、やがて廃城となりました。

慶長14年(1609年)徳川家康は清洲から名古屋遷府を命令し、同時に自身の九男である徳川義直の居城として、名古屋城築城を命じました。この徳川義直が「徳川御三家」の1つ、尾張徳川家、つまり尾張藩の祖となります。

城を築く前の整地や石垣造成の普請奉行には、滝川忠征、佐久間政実ら5名が任ぜられました。天守台石垣は普請助役の任に付いていた加藤清正が築いたと記録に残っています。なお、普請助役にはこのほか、寺沢広高・細川忠興・毛利高政・生駒正俊・黒田長政らが任ぜられています。彼らは石垣に用いる石に自らの家紋や名を刻印して大切な石材を管理しました。今でも名古屋城の石垣には刻印が施された石がたくさん残っています。

石垣の造成がわずか4か月で完了すると、作事奉行に大久保長安、小堀政一ら9名が任ぜられ、築城が始まります。大工頭には二条城の建築も行った中井正清が勤めました。慶長16年(1611年)6月より始まった築城は、11月21日には天守が完成するというハイスピードで行われたと伝えられています。

天守が完成した翌年の慶長17年(1612年)からは、清洲から名古屋へ社寺や清洲城小天守までが名古屋に移る、「清洲越し」も始まり、元和2年(1616年)に徳川義直が名古屋城に移り住み、名古屋遷府は完了しました。その後、名古屋城は将軍が上洛の途中で立ち寄ったり宿泊したりする場所としても利用されるようになりました。

明治時代になると名古屋城は藩主の住まいとしての役割を終えます。そして、陸軍の管轄下に入り、取り壊しの危機を迎えます。しかし、全国屈指の名城であることから取り壊し反対の声が上がり、紆余曲折の結果、永久保存されることが決まりました。1893年(明治26)、名古屋城は宮内庁管轄の名古屋離宮となります。しかし、陸軍の管轄下であった頃、二之丸御殿をはじめ多くの建物が、軍の施設を建てるために取り壊されてしまいました。また、1891年(明治24)に発生した濃尾地震により、本丸多聞櫓・西之丸の榎多門(えのきだもん)が倒壊、石垣も一部が崩れ落ちます。その後、榎多門(えのきだもん)と石垣は修復されますが、本丸多聞櫓はそのまま撤去されてしまいました。

名古屋離宮となった後の名古屋城は、天皇陛下をはじめとする皇族の宿泊所になりました。また、本丸多聞櫓に変わって旧江戸城の蓮池門が移築されます。大正12年1923年には、濃尾地震で崩れた西南隅櫓を宮内庁が修復しました。そのため、この櫓の瓦には菊の御紋が刻まれています。

なお、名古屋城のシンボル、金の鯱は明治3年(1870年)に14代尾張藩主であり、初代名古屋藩知事となった徳川慶勝によって宮内庁に献上されたため、いち早く城から下ろされ、日本初の博覧会や、ウィーンで行われた万国博覧会で展示されました。

これにより、名古屋城と金の鯱の知名度は一気に世界的な物になります。その後、鯱は明治19年(1879年)に再び名古屋城天守に戻されました。

昭和5年(1930年)になると、名古屋城は宮内庁から名古屋市に下賜されます。その後、昭和4年(1929年)に制定された国宝保存法により、天守・本丸御殿など場内の24棟の建物が城郭としてはじめて旧国宝に指定されました。昭和6年(1931年)には名古屋城が一般公開され、名実共に城は名古屋のシンボルとなります。

しかし、太平洋戦争中、昭和20年(1945年)の名古屋市北部空襲により、名古屋城は天守や本丸御殿などが焼失しました。焼け残ったのは、東南隅櫓・西南隅櫓・本丸表二之門・二之丸東二之門・二之丸大手二之門・御深井丸の西北隅櫓の6棟だけです。

昭和21年(1946年)には、焼け残った部分だけの一般公開が再開されますが、名古屋城再建の声は高まり、昭和32年(1957年)から天守閣再建工事が始まります。完成は、昭和34年(1959年)でした。これが、現在の名古屋城天守です。

また、平成21年(2009年)からは、残された写真を元に本丸御殿の修復も始まります。平成25年(2013年)、平成28年(2016年)と段階を踏んで公開されていった本丸御殿は、平成30年(2018年)に完全公開を迎えました。

そして現在は、往年の天守閣(木造復元化)が進んでいます。

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小堀正次

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尾張藩
尾張藩DATA
藩庁 名古屋城
旧地域 尾張国愛知郡名古屋
石高 61万9500石
譜代・外様 親藩
主な藩主 徳川家
推定人口 84万人(明治元年)

尾張徳川家が擁する御三家筆頭藩。石高だけでなく、産業や改革でも紀州家や水戸家を圧倒していた。積極的な経済政策により名古屋城下は東海地区の中核都市として発展した。

名古屋城、豪華絢爛な御殿を堪能する

愛知県名古屋市にある名古屋城は、徳川家康が豊臣家の抑えとして築城した城です。金の鯱が乗った天守閣から「金鯱城」「金城」などの愛称を持っています。復元天守は老朽化のため2024年現在入城は禁止されていますが、2018年に復元された「本丸御殿」は絢爛豪華な内装で知られ、観光客から人気を博しています。

名古屋城
名古屋城の歴史
名古屋城は徳川家康により、尾張の拠点として築かれた城です。もとは室町時代に今川氏が建てた那古野城でしたが、織田信長の父・織田信秀が今川氏から奪い、後に信長の居城となりました。その後は織田家が城主を務めましたが、天正10年(1582年)頃に廃城となりました。
次にこの地が注目されたのは、慶長14年(1609年)のこと。清洲城が水害などの危険性が高いと指摘を受けた徳川家康は、清洲城を廃城し、那古野城の跡地に名古屋城を作ることを命じたのです。これは大阪城を拠点としている豊臣家をけん制する意味もありました。
築城は慶長15年(1610年)から公儀普請として始まり、加藤清正や福島正則など外様大名20名が参加しました。慶長17年(1612年)に大小の天守が、慶長20年(1615年)には本丸御殿が完成しています。
また、家康は名古屋城の城下碁盤割の街を作り、清洲城の城下町をまるごと引っ越す「清洲越し」を実施。約100の寺社、67の町、約6万人を移動させ、徳川家の力を見せつけました。
元和2年(1616年)に家康が亡くなると、家康の9男で尾張徳川藩初代藩主の徳川義直が名古屋城に入城。その後は明治時代に至るまで、名古屋城は16代の尾張藩主の居城として栄えました。
明治維新後は陸軍の施設が置かれ、多くの建物が破却されましたが城の保存を求める声を受けて保存が決定。本丸や西の丸の一部が名古屋離宮となった時代もありましたが、後に宮内庁から名古屋市に下賜され、城は一般公開されるようになりました。
ところが昭和20年(1945年)の名古屋大空襲で天守や本丸御殿などが焼失。天守は昭和34年(1959年)に鉄骨鉄筋コンクリート造りで再建されましたが、2024年現在、天守は老朽化や耐震性の確保などの問題から閉館中です。一方で本丸御殿は2018年に復元・全面公開されています。
名古屋城の見どころ①豪華絢爛な本丸御殿
名古屋城で一番の見どころとなっているのが復元された本丸御殿(復元)です。慶長20年(1615年)に藩主の住居かつ藩の政庁として完成しましたが、初代藩主の徳川義直が元和6年(1620年)に二之丸御殿へ移った後は、徳川将軍専用の宿館になりました。
復元は江戸時代の実測図や障壁画などの美術工芸品、戦前の写真などをもとに行われており、木材には当時と同じく国産のヒノキを使用。現代の名工たちが技巧の限りを尽くし、天井や極彩色な欄間、狩野派の絵師による障壁画や釘隠しなどの飾金具に至るまで忠実に再現しました。
内部は徳川義直が謁見の際に利用した「表書院」、3代将軍の徳川家光の宿泊用に増築された「上洛殿」、将軍用の浴室「湯殿書院」などさまざまな見どころがあり、尾張徳川家の生活を垣間見ることができます。格式によって異なる天井にも注目です。
なお、写真撮影は可能ですが、障壁画保護のためフラッシュはNGなので注意しましょう。
名古屋城の見どころ1 名古屋城の見どころ2 名古屋城の見どころ3
名古屋城の見どころ②天守と金の鯱
慶長17年(1612年)に完成した名古屋城の天守は層塔型五層五階地下一階で、史上最大級の延床面積を誇ります。天守は小天守と渡櫓でつながる連結式のもので、入り口があるのは小天守のみ。2024年現在は老朽化や耐震性のため閉館していますが、当時と同じ木造で再建しようという計画も出ています。
天守には18金で覆われた一対の金鯱が乗っており、名古屋城のシンボル的な存在として有名です。もとは天守の創建とともに徳川家康や尾張徳川家の権威を誇示するために作られたもので、江戸時代には「熱田の浜に魚が寄らないほど光っている」と歌われるほど金ぴかでした。
明治時代に入ると取り壊されそうになりましたが、人々の反対により保存が決定。明治6年(1873年)のウィーン万博に出展され、世界から注目を集めました。こちらも昭和20年の空襲で消失しており、現在のものは2代目です。
名古屋城の見どころ4 名古屋城の見どころ5 名古屋城の見どころ6
名古屋城の見どころ③櫓と石垣
名古屋城には創建時のまま残されている櫓が3つあり、すべて重要文化財となっています。なかでも本丸の南西にある西南隅櫓は、外見は2重櫓ですが実際は3階櫓という珍しい形式。名古屋離宮時代に石垣が崩落したことで、大正12年(1923年)に宮内庁が修復しており、菊紋の鬼瓦・棟瓦が使われているのが特徴です。
名古屋城の石垣造営にはさまざまな大名が関わりましたが、なかでも注目なのは天守台の石垣を担当した加藤清正。天守台の石垣の北東隅石にその名前が刻まれています。ちなみに本丸東二之門を入った正面には「清正石」と呼ばれる巨石がありますが、実際は黒田長政が担当した場所です。
このほか、尾張徳川家の大名庭園「二之丸庭園」も見どころの一つ。約3万㎡の日本最大級の規模を誇る庭園で、名勝に指定されています。
名古屋城の見どころ7 名古屋城の見どころ8 名古屋城の見どころ9
おすすめ撮影スポット
名古屋城のおすすめ撮影スポットは西の丸と本丸にあります。西の丸からは西南隅櫓と天守閣を収めた写真が撮影可能。本丸からは大天守と小天守を両方撮影できます。本丸御殿をいれて撮影する場合は、本丸御殿の車寄の左側にある通路から撮影するのがおすすめです。
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栗本 奈央子
執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。
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