清洲城愛知県清須市

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清洲城DATA
別称 清須城
築城 1405年
住所 愛知県清須市朝日城屋敷1-1
清洲城への交通アクセス
JR「清洲」駅・名鉄「新清洲」駅下車徒歩15分。

HISTORY 清洲城について

清洲城と関連する事件を読む

関ヶ原の戦い天下分け目の戦〜きっかけ・まとめ・その後とは?
慶長5年(1600年)9月15日、天下分け目の戦いと言われた「関ヶ原の戦い」が起こりました。徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍が関ヶ原(岐阜県関ヶ原町)で激突した戦いですが、わずか6時間で東軍が勝
関ヶ原の戦い
桶狭間の戦い織田信長がまさかの勝利!?
織田信長が尾張一国の領主から天下取りへと進む契機となったのが、永禄3年(1560年)5月に起こった今川義元との合戦「桶狭間の戦い」です。親の後を継いだばかりの若き織田家の領主が「海道一の弓取り」と称さ
桶狭間の戦い
稲葉山城の戦い織田信長が美濃を制覇
永禄10年(1567年)8月、織田信長は美濃国(岐阜県)にあった斎藤氏の本拠地「稲葉山城」を攻め落として斎藤龍興を下し、美濃を平定しました。「稲葉山城の戦い」と呼ばれるこの戦い以降、信長は稲葉山城を「
稲葉山城の戦い
清洲会議信長の後継者が決まった会議
天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれました。さらに嫡男の織田信忠も乱の中で自刃してしまい、信長の後継者がいなくなってしまいました。そこで6月27日、後継者を決めるた
清洲会議
清洲同盟織田信長と徳川家康、約20年続いた同盟
織田信長と徳川家康は乱世の戦国時代にもかかわらず、長きにわたって良好な関係を築いていたことで知られています。その象徴ともいえるのが、永禄5年(1562年)に両者の間で締結された「清洲同盟」です。織徳同
清洲同盟

清洲城と関連する人物記を読む

織田信長天下統一前に斃れた武将
戦国武将の中でも抜群の知名度と人気を誇る織田信長に、どんな印象を持っているでしょうか。三英傑のひとりに数えられるだけでなく、戦でのエピソードから、革新的な一面、そして非業の死まで波乱万丈な武将です。決
織田信長
松平忠吉関ヶ原の火蓋を切った大名
室町時代後期、戦国時代とも呼ばれた戦乱の世は徳川家によって終わります。この時代の終止符を打った戦いがあの「関ケ原の戦い」です。東西に分かれて10万人以上が対峙したこの戦い、最初の発砲を行ったのが松平忠
松平忠吉
福島正則賤ケ岳の七本槍
戦国時代、織田信長が本能寺の変に斃れた後、天下人になった武将が豊臣秀吉です。その秀吉には小姓として多くの若者が仕えました。加藤清正、石田三成、福島正則などです。福島正則は尾張国に生まれ、秀吉の親戚とい
福島正則
三法師(織田秀信)信長の孫
戦国時代、戦国武将は戦以外にも病気や裏切り・暗殺など様々な形で命を落としていました。当時、畿内を抑えて天下統一に近づきかけた織田信長も、明智光秀の謀反によって本能寺で切腹、これにより大きく時代の流れは
三法師(織田秀信)
織田信雄信長亡き後の織田家当主
室町時代後期、戦国と呼ばれた世界で織田信長は勢力を広めます。ところが信長は本能寺の変で、明智光秀によって自害に追い込まれました。この信長亡き後の織田家当主となったのが織田信雄です。信雄は信長の次男とし
織田信雄
豊臣秀次秀吉に人生を翻弄された男
戦国時代、戦国大名として大成するためには譜代と言われる重臣の存在と同時に兄弟や一族郎党の力もまた必要でした。時には家臣以上の働きをする一族もいれば、様々な理由で争ったり仲たがいをしたりするケースもあり
豊臣秀次

清洲城を藩庁とする、清洲藩の歴史

丸に三つ葵

松平家の家紋「丸に三つ葵」

清洲藩DATA
藩庁 清洲城
旧地域 尾張国清洲
石高 47万石
譜代・外様 親藩
主な藩主 松平氏・徳川家
推定人口 26万人(明治元年)

戦国時代、清洲城は守護代の織田氏(織田大和守家)の居城であったが、分家出身の織田信長がこれを奪い居城とした。しかし信長が岐阜城、次いで安土城と拠点を移してからは清洲城の存在価値は極度に低下していく。天正10年(1582年)6月、信長が本能寺の変で横死すると、信長の後継者を合議する会議、いわゆる清洲会議が清洲城で開かれ、このとき豊臣秀吉によって信長の後継者は信長の嫡孫・三法師(のちの織田秀信)と決められ、清洲城主には信長の次男・織田信雄が据え置かれた。

日本の城フォトコンテスト.04