HISTORY
平成半ばまで個人の持ち物であった国宝「犬山城」
犬山城は織田信長の叔父、織田信康によって築かれた平山城です。現在の愛知県と岐阜県の中間にあり、木曽川を背にした交通の要所にありました。「白帝城」という別名を持ち、天守が国宝に指定されている5城の1つです。平成16年まで個人で所有していた天守としても知られています。ここでは、犬山城の歴史をひもといていきましょう。
- 織田信康によって創建された城
- 犬山城は、文明元年(1469年)に応仁の乱の最中に岩倉織田氏の祖と言われる織田敏広の弟・織田広近が建てた砦が始まりといわれています。岩倉織田氏は織田信長を排出した一族です。
その後、天文6年(1537年)に織田信長の叔父である織田信康がそれまでの居城であった木の下城を廃城にして砦に城郭を築き移り住みました。これが、犬山城の基礎となりました。その後、織田信康が斎藤道三との戦い(加能口の戦い)で戦死すると城は息子織田信清のものとなりますが、織田信清は永禄7年(1564年)に従兄弟である織田信長と対立して破れ、甲斐の国に逃れます。その後、犬山城は織田信長の家臣である池田恒興や、織田信長の五男、織田勝長などが城主を務めました。
- 小牧・長久手の戦いや関ヶ原の戦いで拠点となる
- 本能寺の変で織田信長が死去した後、犬山城は織田信長の次男織田信雄の配下、中川定成が城主となります。天正12年(1584年)に小牧・長久手の戦いが勃発すると、大垣城主であった池田恒興が織田信雄を裏切って犬山城を奪取しました。その後、犬山城は羽柴秀吉の本陣となり、徳川家康との戦いに望んでいます。
戦いの後、犬山城は一端は織田信雄に変換されますが、その後改易され、豊臣秀吉の甥豊臣秀次の領地となり、実父三好吉房が城代を務めました。
文禄4年(1596年)に豊臣秀次が豊臣秀吉の名で切腹させられると、石川貞清が城主となります。なお、犬山城は織田信長の死後に改築が行われたと記録が残っています。2021年に犬山市が会見で犬山城に使われている材木は、年輪年代測定法によって調査したところ天正13年〜天正16年(1585〜1588)に伐採されたものが使われていたと発表しています。
つまり、1588年以降に犬山城が現在の姿に改築されたという証明がされたのです。
慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いが勃発すると、岐阜城、竹鼻城などと共に犬山城は西軍の拠点となります。石川貞清をはじめ、加藤貞泰・関一政・竹中重門などが配置されましたが、岐阜城が落城したことをきっかけに、石川貞清のぞく全ての大名が東軍に寝返り、貞清は犬山城を放棄して敗軍の将となりました。
- 江戸時代は付家老の居城となる
- 徳川家康が江戸幕府を開くと、犬山城は尾張藩の「付家老」の居城となります。付家老とは、正式名称を御附家老といい、将軍に命じられて大名の家老になった者を指します。一般的な家老より身分が高く、将軍に拝謁できる特権がありました。犬山城は尾張藩を治めた尾張徳川家の初代藩主、徳川義直の付家老の一家、成瀬死の居城となります。成瀬氏は元和3年(1617年)〜元和6年(1620年)にかけて犬山城の改築を行い、天守に唐破風出窓などを設置しました。以来幕末まで成瀬氏九代の居城となります。白帝城の別名は江戸時代中期の儒学者「荻生徂徠」によって命名されました。
成瀬氏は大名並の力がありましたが、正式な大名ではありません。しかし、幕末についに独立が認められわずか数年ではありますが、犬山藩が誕生しました。
- 明治以降の犬山城
- 明治4年(1871年)、犬山城は廃城となり、天守をのぞく櫓や山門などがほとんど取り壊されます。天守も取り壊し予定でしたが、明治28年(1895年)に濃尾地震で壊れた天守を修理することを条件に、犬山城の最後の城主であった成瀬正肥へ無償譲渡されます。
成瀬正肥は私財と犬山市民からの寄付を募り、犬山城を修復しました。以後、犬山城は平成16年(2004年)まで成瀬氏の所有物となります。
昭和10年(1935年)に当時の法律に基づき犬山城が国宝に指定されました。その後、法律の改正に基づき一度は重要文化財になりますが、昭和27年(1952年)に改めて文化財保護法に基づき、国宝に指定されます。
- 現在の犬山城
- 犬山城は昭和34年の伊勢湾台風をはじめとする天災によりたびたび被害を受け、その度に成瀬家が私財や寄付で城の修繕を行ってきました。しかし、個人で所持することが限界を迎え、2004年、11代目成瀬正俊さんを最後に個人所有から財団法人犬山城白帝文庫という法人の所有になりました。
なお、財団の初代理事長には成瀬正俊さんの長女である成瀬淳子が就任しています。その後、平成18年(2006年)には、日本100名城に指定され、数回の修復をかねた調査によって現在にいたります。